2006/11/15

コオーディネーション的思考 続きその6

バリエーション法,コントラスト法,プレッシャー法,ゲーム法,試行錯誤法,オーバーポテンシャル法など,最近のコオーディネーショントレーニングの方法は以前にくらべてだいぶ整理されてきた.Glasauerという人の提案である.もちろん練習運動の多面性,バリエーション,急迫性という三つのモメントだけに焦点化してトレーニング法を構成するという伝統的な考え方もある.方法の体系とか系統化をねらった考え方もないことはないのだが,それは本来のコオーディネーションのもつ創発性,創意工夫,偶然にできあがる形態をもとめる構え,などが失われることになるということもあってか,あるいは,まだ,未熟な理論的な枠組だからなのか,明確で一義的なものにはなっていないようである.体系的に,順序だてて,系統を追跡して,分類し,整理するということをコオーディネーションシステムは嫌うようである.
しかし,スポーツのなかでいわれるコオーディネーションはそうとばかりもいってられないのだ! 練習中に創意工夫があっても,いざとなったときに頭がまっしろくなることだってあるのだから,そこらの調整が必要だし,テクニック・コオーディネーションという表記にこだわる理由もわからないではない! いくらコオーディネーションのトレーニングをつんだからといって,筋力トレーニングをしてボディービル世界選手権で優勝するのと同じように,器用さ・巧みさ世界選手権に優勝することがねらいとはならない.試合や本番で発揮されるものこそが重要になるのだ.
とかく指導者とか教師という職業柄,わたしなどは,今おしえていることが相手のためになっているということをアリバイにして,その指導の内容を絶対化してしまう癖がある.とくに,指導要領だとかトレーニングマニュアルなどがあると,それをいいことにして,なんでもかんでも相手にとっていいものであるのだ,と思い込みがちになるのだ! スポーツがよいのは,そうした思い込みや絶対化に傾きやすい私のような人間に対して,猿的ではあるが「反省!」をしいることだ! 猿的といったのは,なんど反省しても懲りないからだし,反省をポーズにすることも容易だからである.
いずれにしてもコオーディネーションの出発点にあった創意工夫や創発性は,スポーツという文化のなかで,その根幹のところに触れるものであって,したがって,常に相対的で不完全な状態を生き抜かざるを得ないのである.それが楽しいという場合もあるけれども,しかし一パーセントをのこしてほとんどが苦い!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/27

シュパルバッサー(節約水!?)

朝日新聞(5月20日)に、シュパルバッサーが紹介されており、たいへん興味深い。彼の考えは、東独流の指導法がドイツ復興の道というのだ。実際に、その動きは始まっているようだ。 その背景の一つには、ドイツ統合後も、カヌーやボート、自転車、そして冬季種目などで東独流の指導育成法が新しい環境においても継続され、実績をあげているという事実があるのだろうと思う。トリノオリンピックでの成果がそれを教えている。

さて、表題のシュパルバッサーさん、その名前の意味は「節約水」。74年W杯の対西独戦で、彼の得点によって勝利した後、彼のゴールシーンはその後、1年以上に渡って繰り返し、TV放送された。 その英雄ぶりは、シュパルバッサーという商品名のミネラルウォーターが発売されるという状況をももたらした。 東独の経済システムは「節約経済」を基調としていたから、まさに打ってつけのアイディアだ。 

高橋

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/04/19

コオーディネーションは影をもつ!

トレーニングとか学習、それからわたしが生業にしている教育も、すべてそうだけれども、プラスの価値というのか、右肩あがりの発達曲線というものをアリバイにしている。このアリバイと生業との関係が気になる。
運動の世界では、力を抜くとか相手を出し抜くとか、抜き去るとか、ず抜けている、ずば抜ける、抜くというところにこだわる。この抜くというのはなかなかむずかしい!あいつは抜けている!と言われたくもあり言われたくもない!むずかしいところである。抜けという漢字は、手と友があるのだけれども、これだけではいまひとつはっきりしない!
大根を引き抜くときには、両手を葉っぱと茎の付けのあたりに添えて両足を踏ん張って引っ張る。抜け穴は大根の茎が育ったその場所のことを指しているわけであるけれども、食べるのはこの抜け穴ではなく、大根の方である。
トレーニングや学習が何かを身につけ足ることにこだわるのは仕方のないことだけれども、力を入れる方に力を入れるだけではなくて、抜く方にも力を入れることが必要なように思われる。ちょっと論理矛盾だけれども、スポーツや運動の幹には、こうした論理矛盾が頻発する。抜くこと、いままでそこにあったものを捕ってしまって、がら空きにする、スペースをつくる、余地をつくる、無とか非や不の状態をこしらえる、というよりも仮想してみる、というようなところにコオーディネーションがある!

綿引

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コオーディネーションとコーディネーション

コオーディネーションとコーディネーションを区別するのはなぜだろうか?コオーディネーションは、 Ko-ordinaitonとかco-ordinationという表記をそのままカタカナ書きにした苦肉の策である。我が国では、コーディネーションという用語が通用しているので、そっちでいくべきだろうとおもうのではあるが、すこしこだわりがないわけではない!
スポーツの領域では、やはりコーディネーションの方がいいのかな、とも思うけれども、それに、co-op と表記しても、コープというわけだし、それで通用するのだから、コーディネーションでもいい!コーディネーターというのも市民権をえているし、アイアンではなくて、アイロンだし、でも、アイロンマンレースではなくて、アイアンマンレースが通用している。カタカナ表記がわるいので、協応とか協調、ということの方がいいなとも思う。
co-ordinationの訳語をしらべていて、最初のころ、心理学者のジェームスさんの本の日本語訳のなかに、呼応というのがあった。これはコオーディネーションという音の最初のところ(こおー)をとってきて、それに漢字の意味を重ねて訳すという音訳という方法でつくられた訳語のようである。その後、呼応の呼を協にかえて、協応という表記になっていくようだ!
こまかな調べをもっとやらないといけないのだけど、呼応というのはなかなかいい。いろいろな部分や要素が「あうん」の呼吸でおたがいにうまくつじつまを合わせながら、まとまりつつバラバラさを保つ!というようなイメージだろうか?呼応ディネーションという表記も考えたこともあったのだけれども、これだとますますなんだか分からなくなるので、コオーディネーションとすることで、カタカナ表記と和語表記の中間をいくことができるのだろうなと淡い期待をいだいたわけである。
まあ、そうこうするうちに、コオーディネーションが一大事になってきて、アメリカなんかでも、ロケットのフォンブランウン博士よろしく、ロシアからベルンシュタインの弟子を招聘してきてコオーディネーション研究を大プロジェクトで研究する。そのなかで、ダイナミックシステムなんちゃら理論というのがでてきて、バートランフィーという第二次世界大戦のころの亡命学者さんのシステム理論の流れと合流する。
キーの概念はカオスである。混沌、無秩序、老子の話もでてきたりしてなんだかとっても大変なことになってきたのだ。情報がキー概念であるという考え方もあるけれども、情報は秩序の側に属する官軍のような概念で、カオスはその範疇に属さないことがらを指す賊軍的な概念だと考えていいのかもしれないけれども、この二分法という考え方にもカオスは攻撃をしかけるので、パラダイムの転換やグラウンドブレイキングとか、ともかく、わたしたちの思考の足場をくすぐってくるもの、というような概念群である。
コオーディネーションは、こういう足場をくすぐったり、くずしたりしてくれるカオスを命の源とするというような、一刻もそこにとどまることのできない重い宿命を背にしつつも、一瞬の美に投機しつづけざるをえない生命体だということもできるのだ!

綿引

| | コメント (0) | トラックバック (0)