2007/08/21

コオーディネーション的思考 66

ベルンシュタインの問い 12

イノシシと犬と人間と

山の仕事を本業にしている人たちがシシ鍋をご馳走してくれた。「山追い」というイノシシ狩りの成果だ。なんといおうと、これはまさしくスポーツそのもので、平均年齢60後半という10人弱のチームが11月から2月までの猟期にシシを追う。彼らのフィールドは鹿背山(カセ山)である。
林道や獣道の一本一本に記されたシシの足跡を丹念にみてまわり、その居場所を遠巻きに特定する。足跡がどの方向にむいているか、新しいのかふるいのか、目方はどのくらいなのか、雄雌か、というよう情報を無線でやりとりしながら、フィールドを狭めていく。フィールドが特定されると、鉄砲隊が配置につく。いよいよ、山追の開始である。
リーダは犬をつれて、そのフィールドの一方からシシをおう。二度ほどその後を追わせていただいのだが、60後半の脚はすごい!シシの隠れ家も既知のデータとしてあるから、その近くで、犬の首輪からヒモをはずす。彼女の首輪には鈴と発信器が装着されているから、各所で待ちかまえている射手にもその動きがわかる。
犬も血筋があるらしく、勇敢すぎるのはだめで、すこし臆病くらいがちょうどいいらしい。勇敢すぎるとシシを走らせてしまったり、仕掛けられたケンカにのってしまって大けがをしたり、立ち直れないような深い心的な傷を負う。一晩中山中を追い回したあげく、迷子の犬になったりする。あるいは、シシではなくて、シカとか野ウサギをおっていったり、さんざん猟場をあらしまわってしまう犬もいるという。
怖さを知っていて、逃げたくなる気持ちをおさえ、シシの挑発にものらりくらりと対応しておいて、ちょうどいい距離でシシの足をとめられる、そういう犬が理想なのだという。吠えるタイミングをしっている犬もいて、射手が打ちやすいところで一声ほえてくれる。射手の平均年齢が高いということもあって、木々の間を走るシシに弾を命中させることはむずかしい。ましてやまともに頭をこちらに向けてむかってきたり、尻をこちらにむけて走りさっていくシシなどは論外である。できれば至近距離を真横にゆっくりと走っていってほしい。そういう動きをシシにさせることのできる犬がいる。というよりも、いた。
ちょうど一年前だろうか!その犬は害獣駆除のためにまかれた毒餌をたべて死んでしまった。今期は同じ血筋の犬が本領を発揮しはじめている。最初はからっきしだめだったらしいが、年をはさんで、犬力を発揮しはじめている。なんとも凄いやつで、一才半の娘の手をやさしくなめる。この犬が60キロをこえるシシの足をとめ、自在に動かすとは信じられない。
娘とわたしと家内の前には、そのシシが腑を抜かれて、納屋の天井からぶら下げられている。臓物は発熱して肉を「煮てしまう」そうで、すぐにその場でとってしまう。シシの絶命の印で、舌をかみきっている。シシの皮をきれいにはぎとって、肉をわける。なんとも手早い仕事である。その光景をみながら、炭火でやいた肉をご馳走になった。
猟期も二月の半ばでおわる。シシと犬と山の人たち!なかなかスポーティーな関係である。

下等動物と霊長類

運動やスポーツのことを考えるという仕事をしている習性で、なんでもかんでも、運動だ、スポーツだ、というような決めつけ方をしたがる。知性も運動、哲学も身体、イノシシ狩りもスポーツ、子供の成長もスポーツや運動だ、と。ベルンシュタインは、そのような決めつけ方を徹底的にやった人のひとりだろうが、その徹底さは政治や権力の心髄をえぐるようなところまでたっするのだが、なんともそれは凄みがあるというのか、狂気ともとれるようなところが認められる。
人間が自分を霊長類として、世界の頂点に自己を位置させるという、思い上がりもはなはだしい物語を言語記述のひとつとして作り上げてきたことも、近頃では、この物語の終焉の自覚として語られるようになってきた。頂点をおりたからどうだ、というのではないけれども、この構図で生きるとすると、結構「しんどい」ということだ。
ベルンシュタインの運動構築の階層性についても、自然の中での相対的な位置づけを言語化しておいて、再度そのような有り様のはらんでいる問題点、あるいは、そのように運動を構築すること以外に道はないのか、というような相対化への問いかけ、として読むこともできる。
下等な犬やシシと、霊長類としての人間との関係をスポーティーだ、と言ったのは、そのような相対化の問いを含んでいるからである。

プレーの説明レベルについて

この図は、「トレーニング科学」からとったものだが、球技や対人競技のプレーの言語記述の枠組みの提案である 。トレーニング科学は、第三版が昨年だされた。第一版と第二版ではこの図が使われているが、第三版では削除されている。前回ふれた、行為の階層モデル、知的レベル・知覚概念的レベル・感覚運動的レベルという階層モデルの発展型で、とりわけ、球技とか対人競技のプレーのモデル化を意識したものである。
第一から第三までの説明のレベルがあって、それに対応したプレーの表層構造と深層構造、そして、各構造をとらえるための科学的な分野や主要な研究内容、知識内容が整理されている。ドイツ人らしいシステム構造観がおもしろい。このような構造モデルがなぜ必要なのか、ということも考えなくてはならない重要なテーマではあるが、三角形(本来は円錐)の切れ目に注目したい。
一番表層にあるのが、試合のプレーパフォーマンス、いわゆる試合の勝ち負けやできばえである。その下に隙間があって、実際のプレー行為、そして、さらに隙間があって、深層構造としてのプレーの能力が示されている。表層構造に対応した第一説明レベル、深層構造に対応した第二と第三の説明レベル、それぞれの構造、説明レベルには隙間がもうけてある。そして、表層構造・深層構造と外部条件の間にも隙間がある。
人間はひとまとまりの存在だから、こういう切れ目とか裂け目、隙間などはどこにもみえない。当たり前の話である。素朴に納得できるのは、最後の人間と外部条件の間にある隙間くらいである。
しかしどうだろうか、わたしたちの稚拙な運動・スポーツの経験とか指導の経験を思考のなかに組み込んでいくと、とたんに様子がちがってくる。隙間や裂け目だらけ、ポンコツの操り人形のようなイメージが浮上してくる。
「隙をつく」という攻めの思考からすると、こうしたモデルは、試合のなかで浮上する「ポンコツの操り人形」に、相手を追い込むにはどうしたらいいのか、逆に、そのようにならないためには、どのようにトレーニングしたらよいのか、という問題に連携することになる。すばらしい運動能力をもった相手であっても、それをプレーの行為やパフォーマンスにまで展開しないようにしてしまうにはどのようにしたらよいのか?逆に、相手よりも運動能力がおとっていたとして、どのようにしてそれをプレー行為やパフォーマンスへと関係づけないようにするのか、という攻撃的な守備の問題が現出することになる。なかなかおもしろいというのか、怖い話ではある。

「技能習得はむずかしい」ということをあらためて考える

ベルンシュタインは、動作技能の構築を二つの時期にわけている。前回ふれたような概観のあと、大人の動作技能にしぼって、詳細な説明をおこなっている。その説明も、もっぱら、上でのべた階層水準間にある隙間とか溝、に集中する。
前回の引用につづいて、技能の階層構造を指摘する。とりわけ、子供の時期の生物学的な成熟の後にやってくる、それこそ明暗の交錯した技能習得の難しさとおもしろさ、技能習得やトレーニングのなかにある、隙間や裂け目、が問題にされる。すこし長い引用文だが、おつきあい願いたい。

動作技能は多水準構造をもっているということは明らかです。要素的な動作だけは、主導水準での修正だけですむので、技能を練習によって精錬する必要はありません。ほとんどの運動技能はすでにみたように主導水準と下地水準から成り立っていますが(水準ごとに独自の働きし、最適な修正を実施する)、この多水準構造がすぐにできあがるというわけではありません。はじめての動作を実施しようとすること、たとえば、将来の技能の胚、は、一つの水準での動作経過として構築されますが、すでに形成され、記憶に蓄積された基礎となるものを、最初は自在にすることができません。学習者は、他の水準の、習熟し適応した基礎をある程度は自在にできているわけですが、最初は、有効に活性化できず新しいコンビネーションに利用できません。あらゆる動作を、この最初の一歩のときには、主導的で支配的な水準のコントロールと修正のもとで実施せざるをえないのです。
この水準は動作をうまく実施するための完璧な感覚受容と感覚修正の品揃えをもっているわけではありません。そのため、急場しのぎの修正によって実行することになります。建築足場のようなもので、それによって、石組みができあがるのです。新しい動作コンビネーションをアドホック(その場限り)に構成するための、間に合わせの弁別・分化は、もっぱらC2の上向性の皮質感覚運動システムが受け持ちます。大脳皮質は、あらゆる種類の感覚フィールドとの結合を自在にしています。それだけが、新しい未知の刺激に、適切な動作反応で応答することを可能にするのです。未知の複雑な労働作業を習いはじめるような時には、支配的な修正に必要な感覚システム情報は、視覚や平衡感覚が優位をしめていて、これが大脳皮質に投射されます。自己受容的な筋や関節の安定性についての情報は、皮質にはわずかしか到達せず、主導水準は体部位の位置の修正やその反作用的な相互作用の修正という面では、深部の皮質下水準よりも役にたたないということになります。
習得がすすむにつれて、中枢神経系では、対応する下地水準に、下地的修正が移行しはじめ、その求心性の質も、修正に適した水準のものに移行していきます。たとえば、投技能では、脚での全身の回旋、体幹と頭部の螺旋状の回旋、肩関節と腕の導出動作を含む、一般的なシナージーはまず、皮質システムによって修正されますが、このシステムは、すでにのべたように、自己受容器とはわずかな関係しかないシステムなのです。このシナージーが練習の過程で、視床-淡蒼球水準によって担われるようになると、この水準が触覚と自己受容性の器官と結びついているため、動作のこの側面のコオーディネーションはより正確で、強度があり、簡潔で経済的なものとなっていくのです。
そこから結果するのは、1.補助的な作業から主導水準が解放される、2.当該のシナージーのコオーディネーションが意識閾から消えていく。3.その場合、量の改善だけではなくて、質的変化もおこり、適切な感覚修正にスイッチの切り替えがおこるからです。(10-11)

「運動する」≠「運動と言われていることをする」!

ドイツの運動(科)学はさかんに「行為」ということばを使う。すでにくりかえしふれているように、「動作」や「運動」の後に、「行為」をくっつけて、四字熟語の「運動行為」とか「動作行為」ということばが出てくる。先のモデルで、プレー行為と訳したドイツ語は「Spielhandlungen」で、直訳すると「遊びの行為」である。運動する、動く、遊ぶ、というような日本語表記にも、こうしたニュアンスが含まれているように思う。たとえば、運動する、といっても、「運動を意識して行う」、あるいは、「運動と言われていることをする」、というような微妙なニュアンスの違いは練習やトレーニング、そして、試合の場面で頻出してはいないだろうか!?「もっと頭をつかえ!」「トレーニングの意識性の原則」「計画的練習」「目的をはっきりともったトレーニング」「相手の弱点を意識したプレー」、はたまた「すべてを忘れて!」「余計なことを考えないで・・・!」。NHKの人間ドキュメントでは「勝つことを切り落とす!」ということがテーマになった。
行為を問題にするということは、たんに運動している状態がそこにある、というのではなくて、それがなにかしらの問題をかかえ、うまくいかなかったり、つまづいたり、というような運動の挫折の状態の現出を前提にしているようだ!挫折という大げさなことばをつかったけれども、失敗とかエラーとか、ミスとか間違いとか、とにかく、うまくいかないなというようなことである。スキーをはじめてはいてすってんころりんと転んだとする。その場合転ぶという動作は失敗していない、失敗しているのはスキーですべるという動作の方である。ある動作を失敗ととるのか、成功ととるのかはそのパフォーマンスをどのような座標次元のなかで価値づけるのか、ということによる。運動や動作はそれ自体としては十全のメカニズムにもとづいてある働きをするだけで、それをどのような次元から捉えるのか、ということの方が問題なのだ!プレーもそれ自体は無味乾燥なもので、行為となったときにはじめて、なにかしらの成果として価値づけされる。運動することが運動と言われていることをすることとして現出するのだ、ということを考えざるを得ない理由である。
そして、運動やスポーツの世界では、かならず、ここからすべてがはじまる。ベルンシュタインは、それを「将来の技能の胚」だといった。運動している状態と運動と言われていることをしている状態の間に亀裂がはしり、その亀裂を自覚することからはじまり、その二つの状態が限りなく近づくような、ある意味では、到達不能のところをめざしたなんともとりとめのない、究極の暇つぶし、という面に注意が向いている。わたしたちは、生物的な成長をへた後、個体発生のなかで、前脳化の光と闇の世界に踏み出す。自己受容性の感覚や触覚成分をあまり含まない、視覚や平衡感覚優位の情報をたよりにした、技能習得の最初の運動はなんとも稚拙だしグロテスクなのだが、それは「胚」としてすでに生をうけ分化をはじめた、大切な技能生命体だということだ。グロテスクな胚をわたしたちは我が身をけずって体験する。

腑に落ちる

日本語には腑に落ちるというたいへん意味深い表現がある。ベルンシュタインの話もここに落ち着きそうな!感じがする。この連載の最初の方でふれた、理解運動論に関係するのだが、運動科学やトレーニング科学は理解=腑に落ちる、をねらいにした応用科学だとドイツの人たちはいっている。応用科学、という表現もあるが、理解科学だ、と考えることもできるだろう。
これは二重の意味をもっている。技能の多階層水準ができあがっていくプロセスそのものが、腑に落ちていくこととして描くことできそうだ!という点が一つ。もう一つは、そうした理論や知識それ自体がわたしたちのスポーツという行為のなかで理解され腑に落ちていく、という点である。
イノシシの肉をたべながら考えたことである。

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2007/08/20

コオーディネーション的思考 65

ベルンシュタインの問い その11

左から右に流れる時間を横軸にとり、縦軸に測定したい項目をあて、その値の変動が時間にそってどのように変化するのかを概観する、とする。たとえば、その項目が期待したいもの、わたしたちにとって都合のよいものであるとすれば、わたしたちは右の方に、左よりも何か高いものを見出すことを期待する。逆に、それが都合の悪いモノである場合には、低くなることを期待する。いいものは増加し、悪いモノは減少する、というわたしたちの期待をこうした図像は単純すぎるくらいにすっきりと現してくれる。
現実はといえば、いうまでもないが単純ではない。なおさら、その図像のなかに、なにかしらイデアルな理想郷をもとめるということもわたしたちの科学の心性として前提にされているような気もする。図や表の背景になっていて、その図や表の数値や線、矢印やら点を、そのようなものとして浮き立たせているところのものの「純粋さ」「混じりけのなさ」のほうが、むしろ前にでてきて気になってしまうことがある。地と図が反転して、本来図をうきたたせて美しく魅せてくれる地が前面にでてくる。いったいだれがこのような背景や土俵が前面にでてくることを予想したであろうか?
天地の逆転がおこり、図が背景にしりぞく。戦争というのは、そのような逆転が用意なのだ、ということをしらしめてくれるという意味では教訓的ではあるが、代償はあまりにもおおきい。スポーツとは無縁のはずの戦争や政治は観衆もふくめて、こうした図と地の逆転を仕組む、格好の舞台となってしまったようである。赤と黒のジャージの意味は、とおくイギリスの心性を表現する絶好の場所をえて、いままでとはちがった際だちをわたしたちに魅せてくれたようである。

図と地/勝利と敗北

動作技能も、一般の成長・発達モデルや成熟のモデルから説明されることが一般的である。時間と変化、質的な変化がよい方向に向かうと発達、わるい方向に向かうと変質、というような表現形式をとる。運動も発達することと変質することとの間を揺れている。天国と地獄、勝利と敗北、成功と失敗、最近ではそれにくわえて、富と貧困がかさねられる。時間がたって動作の質が変わってはいくものの、それが発達となるか、変質となるか、富につらなるのか、貧困に喘ぐ道にはいりこむのか、分岐の選択はたいへんに難しい!それらを極端にまで抽象すると、「生」と「死」という語に連なっていく。
富と貧困という概念と生死の問題とが重なるという意味では、スポーツの商業化とかプロ化の問題へと連携していく。商業化はスポーツをお金に換算するので、その純粋さとか自己目的性とかが失われ、スポーツの本来の姿を変質させてしまうので、お金とかかわらない、アマチュア精神とかいうものが主張されるわけである。どうだろうか?なにか、ここのところに論理や倫理の問題がひそんでいないだろうか?
プロになるということは、スポーツ以外で生活の糧を得ることができない、という意味で、スポーツ以外の論理や倫理を排除する、つまり、お金の論理や倫理をプロになることによって排除するということを前提にした、たいへん矛盾した選択だ、ということになる。スポーツの論理や倫理に没入し、そこで通用する価値性を徹底的に追及することを通して、そのみかえりとしてのみ金銭的な報酬をえるということである。お金のためではあるが、その前提になっているのは、スポーツ価値の創造、これまでにないスポーツ産物の見事な産出である。たえざる技術革新と瞬時の賭、予測的なトレーニングと科学的なバックアップ、それらすべてがプロの場合には、一瞬のスポーツ的運動産物へと収斂する。この産物たるや、音楽の演奏よろしく、その瞬間に次々に生産されつつ消費される。生産は同時に消費であり、消費の見事さや生産の危うさそのもの、スポーツパフォーマンスという商品に魅了されるのはこの生産と消費の一瞬の交錯である。
アマチュア精神は牧歌的/自給自足的である。そこに安住していればさほど、他者的な価値の生産の凄惨な現場をみなくてすむし、そこで生み出されたよそよそしい価値にもさほど気をつかわなくても事足りる。しかしどうだろうか、スポーツも牧歌の世界からはなれて、類的な価値創造へという歩みをはじめてきている。もはや価値創造と価値比較の凄惨な場へと舵をきっている。というよりもむしろ、やっと遠いイギリスの人たちのスポーツ精神とやらに向き合える段階になってきた、ということのほうがただしいのかもしれない。最初から、仕組まれていた「イギリス的なもの」、覇権的な世界戦略、というような精神が覚醒しつつあるのだ、ということなのだろう!ラグビー校が身近になってきた!

技能習得の位相

技能習得の話にもどろう!ドイツのトレーニング科学では、次のような技能習得理論の整理が行われている。 三段階をいう人もあれば、二段階や四段階を主張する立場もある

マイネル(1961)
1.ラフな基本経過の獲得:ラフコオーディネーション
2.修正、精密化、分化:ファインコオーディネーション
3.変動条件への確定と適応:安定化
マズニチェンコ(1964)
1.最初の動作表象の発達、本質的な基本系列という点での行為遂行の発達
2.改善された行為遂行の発達、動作実施の精密化
3.運動行為の確定、技能へと発達=自動化、安定化
4.変動性に富んだ技能へと発達、変動性条件のもとでの応用ができる
ペールマン(1986)
1.習得
2.改善
ロート(1990)
1.行為要素の発達:位相A1,A2
2.行為要素の確定と安定化:位相B
3.行為要素の応用:位相BC
ホッツ(1997)
1.獲得と確定
2.応用と変形
3.形態化と補完
シュミット/リスベルク(2000)
1.言語認知段階
2.運動段階
3.自動性段階

トレーニング科学の前身には「Meisterlehre」という伝統があるという。日本語でなんというのか、「熟練論」・「修養論」であろうか!いずれにしても、時間をかけて、ある「神業」を手中にしたような専門家・職人の「匠」・「巧」に対するあつい視線が普遍的であることをものがたっている。ベルンシュタインの「デクスタリティー」である。
未熟なものが熟していくこと、アオイものが赤くなったり、黒くなったり、琥珀になったりと変化する。腐っていく変質もあるけれども、いつからか、この腐敗の危うさの向こう側にある熟成や醸成の世界へとわたしたちは踏み込んでいく。だから、錬金術にしても、奇術や妖術、忍術、秘術、などの系列と同じニュアンスがあるのだが、技術や芸術となると、すこし客観的になる。運動の術ではなくて運動技術であり、教育術ではなくて教育技術、術を駆使するのではなくて技術を駆使するのである。しかし、技術と術との間には、まだまだおもいもよらないような深い谷がある。優れた選手や指導者、職人さんの姿には、技術的にはなんともおしはかれない、術の世界がひろがっていて、遠くからはなかなかみることのできない、大きな隔たりとか「凄味」が実際には存在している。
技能や技術の習得には段階があるのだ、という場合にも、この隔たりの埋められなさ加減を甘受しておくことが必須である。そうでないと、修行していっても、なかなかこの境地を手に入れられず、ましてや、やればやるほど、その隔たりが広がり、深まるのだから、だまされた、という感じになってしまう。そうではなくて、そういう考え方とかやり方もあるな、という程度の諦観が前提としてあれば、自分のペースで熟成の道を歩むこともできるというものである。まあ、終わりのない道を歩むための、いっときの慰み、ということである。ベルンシュタインは次のような抽象的で一般的な段階分けをしている。

<第一期:主導レベルの特定>

動作技能の構築には、目的という点からみて二つの時期があります。その境界として、構築しようとしている動作の要素が下地レベルに移行すること、このレベルで要素の獲得、その動作の共同実施の始まりがあります。
第一期の内容は次のようになります。1.主導レベルの特定、2.動作と運動との対応、3.動作の細部や要素ごとに適切な修正法を明らかにし、この修正の正確さをとらえ、それを専門的に行う下地レベルを特定し、下地修正を切り替えること(自動化)。

篩にかける
篩にかける、という作業があって、作物の選別をする。篩は振るうとか震う、奮う、などとも関係していそうだが、篩を振動させることで、篩の目次第で、収穫物の選り分けができる。第一期は、この篩のイメージをもつとわかりやすそうである。これまでにない技能をならい覚える最初に、この篩による選別の作業を行う。体を振(運)動させて、課題のなかの雑多な内容物をえりわけ、所定の水準にその内容物を落ち着かせ、主要な修正レベルがどこか、ということを探り当てるということである。砂金さがしとかも同じような作業になるが、ここでいうところの、主導レベルの特定というのは新しい技能の核となっている修正の質を「精錬する」ことである。
わたしたちの技能の習得は、ちょうど砂金まじりの大小の大きさの砂粒を篩にかけるときと同じで、大きさも調節の仕方もことなる動作の課題がいっきょにごちゃ混ぜになって意識レベルに押し寄せ搬入してくる。本来シナージーレベルやトーヌスレベルで修正処理されるべき筋の微細の動きまでもが、第一期では意識せざるをえない。それを、砂粒の大小をいりわけ、そこから砂金を取り出すように、すこしづつ本来のレベルに篩い分け・振り分けていく。シュナーベルさんたちが行為という言葉にこだわるのも、こうした理由からである 。本当は意識的になどできるはずのない、筋肉の微細な調節も意識的に意図的に調節しようとするし、そういう矛盾をかかえているからこそ、技能の可塑性とか多様性を手にすることができている。

動作と運動

「動作技能の構築」について話をしているのだが、動作と運動についての区別がどうしても必要になってきた。前にもふれたのだが、Bewegungを動作と訳し、Motorikを運動と訳することが必要な場合もあるし、そう厳密にわけることもない場合もある。なんとも落ち着きのわるいところだが、この落ち着きの悪さの原因は、運動も動作も落ち着きを旨としていないというところにある。
ベルンシュタインの場合には、Bewegungはそとから確認できる身体や部位の時間に対応した変位をさし、Motorikは、それに対応する内的な調節水準を指している。第一期では、変位としての動作と、修正水準としての運動系の対応が決定されるという。歩行でも、舞台俳優の歩行と、日常の歩行では、関わっている修正水準は同じではないから、練習の内容や文脈構成は最初から異なる。大腿の筋緊張でも、跳躍時のそれと、着地時のそれとでは、そもそもの意味がちがってくる。
動作と運動を区別することによって、出力されたものと修正水準への二重の視線が用意できる。スポーツのパフォーマンスには、この二重の視線をもって望まないとみえてこない部分が多い。というよりも、この二重性こそがパフォーマンスの特質としてトレーニングの対象となっているということができる。

<第二期:安定化>
主導レベルの特定という第一期に続いて第二期は、安定化という特徴をもつ。

第二期は安定化が特徴です:1.自動化の経過がさらにすすみ、下地水準が動作要素を我がモノとします。しかし、各下地水準の間とか、主レベルとの間での錯綜がおこり、大きな困難がうまれることになります。2. 自動化のなかの、動作成分や要素の標準化という面が終了します。3.動作が安定になり、攪乱作用に対しても、動作の側面や細部は確実になります。

安定化の背後にあるもの

ベルンシュタインの指摘をまつまでもなく、スポーツパフォーマンスがこのような大仕掛けなシステムとしてたいへんな労力をかけるべき対象となっているのは、安定化の背後にあるものの深淵さによるところが大きい。スポーツだけのはなしではなくて、わたしたちの何気ない仕草一つにしても、意味するところは深い。下地水準として、背後にあって図を前面に押し立ててくれている背後の修正が突如意識にのぼり、その処理にきをとられれば、動作の流れは寸断するし、短時間のリカバリーに失敗すれば、後手にまわる。好調と不調はリズミカルに交代するとしても、その予測はなかなかむずかしい。好調は不調を準備するが、不調はかならずしも、好調のまえぶれとはならない。
動作や運動の世界での安定化はその意味では戒めとしての意味以上のものをもたないのかもしれない。

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2007/08/15

コオーディネーション的思考 64

ベルンシュタインの問い その10

自分の動きに満足がいくということがほとんどないのに、なぜこうも運動にこだわるのだろうか?ほとんが失敗や敗北で、成功はいわば例外中の例外なのだ、ということもそれなりに身にしみてわかっているつもりではある。うまくいったという実感にしても、ほとんど数秒とか数分とか、わずかな時間のなかでの快楽をともなうにすぎない。楽しいからとか健康になるからという、もっとも、とうなづける理由をあげるのは、言い訳やアリバイ証明であったりする場合がほとんどだ。いわば成功や生産性とは無縁の世界の、自虐的なたんなる浪費にひかれているというのが実像なのだとも思う。自分の命や相手の命を貪り食う、というような意味でいえば、カニバリズムのタブーにふれる仕業なのかもしれない 。

引き続き、「動作技能の発達」を読む。受動性、モノトーン、長時間性という運動の学習や練習の背景になってきた考え方、とくに、条件反射理論の問題が指摘された。
ベルンシュタインの動作や運動の見方については、くりかえし指摘しているところだが、専門的というよりも、日常的というのか、日々の暮らしのなかで息づいているものへの視線というのが厳しい!
スポーツや体育の「科学的な」訓練をして、大学で職を得ている私などは、実践的でなくてはならない、とか、役立つものでなくてはならない、とか、そういうところを過剰に意識する習性を身につけているのだが、これにしても、研究がハイカラで、現実ばなれしていて、先端的で、すすんでいる、というわけではなく、ただただ通俗的であることへの嫌悪を表明しているにすぎない場合がおおく、その意味でも、「アリバイ証明」以外の意味をもたない言説だ、ということだろう。まして、運動にかかわる科学の言説自体のもっている欠陥というのか、これまで、ある意味では信仰に近い教条として、みながそこから出発し、そこから多くの着想をえ、実践し、あるいは反論し、検証してきた、そのような源泉的な言説への批判に出会うと、なんというのか、足場がぐらついて、一瞬めまいのようなものを感じてしまう。ベルンシュタインを読むという企ては軽くはすすまない。自己のよってたってきた、これまでの多くの言説の基礎となっているところを揺るがすのであるから、それはそれで自分の足を食べてしまう、病気のタコの感じにもなる。自分の分泌する消化酵素で自分を消化してしまう、というような究極のカニバリズムを自覚しなくてはならない。なかなか厳しいところがある。
ベルンシュタインの言説ゲームの相手は日常の運動だったのだ、ということをあらためて確認しておきたい。言説権力の奪い合いの渦を描ききることも大切ではあろうが、ここに、生々しく実感される運動や動作と言語や意識との間に展開される言説ゲームのほうが数段魅力的であったのではないだろうか?そのようなことを考えると、現象そのものへ、とか、生活そのものへ、とか、有るや居るそのものに立ち還れという哲学的なスタンスともそんなに遠くはないようにも思われる。
動作技能の話にもどろう!

<標準化されていないから、標準的である>

「動作技能は、ひとつながりの神経筋インパルスの公式のようなものではありません。すでにみたように、標準公式が中枢に形成されるわけではありません。というのも、動作コオーディネーションは、外部条件に、奏効インパルスをたえず適応させ続けることだからです。この条件は絶えず変化し、受容器系はそれを追跡します。標準マスターのような働きをしているようにみえるために、だまされやすいのですが、シナージーレベルBは、安定したマスターを、有能な感覚装置によって維持しており、その高度なテクニックによって能動インパルスを、外力や反力の変化にうまく適応させることができるのです。シナージーレベルの動作は、奏効インパルスが標準化されていないことによって標準化されるのです。また、動作技能の基礎として、標準的な感覚修正のようなものも仮説できません。奏効側にある中枢も、受容器側のそれも、道作りや技能痕跡の局在化に役立つことはありません。強調しておかなくてはならないことは、無数の反復はなんらいいものを生みださないということ、練習やトレーニングを、道作りや刷り込みだと理解してはならないということです。動作が間違っていて熟成していないような段階で、技能を刷り込むということは考えられませんし、”道作り”というコンセプトはまちがっています。」

世界標準、グローバルスタンダードという言葉があるけれども、このスタンダードであることは動作技能の大切な特徴の一つである。どのような場合でも、わたしの歩き方(歩様)は変わらないようにみえるだろうし、バットのスイングからランニングの仕方まで、それぞれが個性的な標準をもっていて、それは条件が変動しても変わらない。そうした変わらない標準を手にいれることが技能の学習、テクニックトレーニングの目的ということが了解される。変わらないもの、標準的なもの、安定していて、いつどのような場合にも適応でき十分な成果をあげる運動様式を習熟することがねらいとなる。
ベルンシュタインの論理は、そこのスキをついてくる。

「シナージーレベルの動作は、奏効インパルスが標準化されていないことによって標準化される」

この論理をテクニックの獲得目標と練習過程ということに置き換えてみるとどうなるだろうか?

「かわらない動作は練習内容がかわることで習得される」
「安定している動作は安定していない練習によって習得される」

不易流行!変わらないものと変わるものをセットで考えるという知恵はそれほどめずらしくはなく、生活のなかで息づいている。問題は、同じ文章のなかに矛盾した二つの判断が同居しているようにみえるという点である。変わらない動作とインパルスの変動という二つの判断が同居している、という落ち着きの無さを感じる。しかし、運動の実際は落ち着きとはあまり関係がない。落ち着いてはいられない。落ちて着地するまでに発揮されるテクニックが勝負をきめる。

<発達の弁証法>
運動や動作が変化を本質としていることは明らかなことである。ところが、変化を本質とする運動という対象に、静止を本質とする物の(生産の)論理や知識学習の論理を、そのままあてはめるところから問題がでてきた。すでにくりかえしのべていることだが、運動を言語によって記述しようとすると、初期状態がそのまま記述の終了まで維持されることはない。なぜなら、運動しているからである。排中律と矛盾律をまもれば、論理的には整合性をもつのであるけれども、運動記述としては意味をなさない。その点については、ベルンシュタインが「コオーディネーションとローカリゼーションの相互関係」という論文で指摘したところである。腕のバックスイングのときに、ボールをもった腕に働く諸力は刻々とその様相をかえている。腕の重さにしても、それは他の体節との関係でいくらでもかわってしまう。運動のなかで変わらないのは運動しているということと、腕や運動という記号だけである。これは運動を本質としている物と静止を本質としている物と大きな違いである。さらに、この運動や動作は質的な変化をこうむる。意識的なものが自動化し、はらはらどきどきだったものが安心してみられるようなものになる。ベルンシュタインは発達の弁証法という言葉を使う。

<発達の弁証法>

「後のものが前のものよりもよくなっているということ、これが発達の弁証法の前提ですから、練習は反復のない反復です。表面上パラドックスのようにきこえますが、練習はある動作の反復や道作りではありません。むしろ動作の構築というべきで、練習は、手段を反復すること、課題解決にとって意味をもつ手段を繰り返し実施することではなく、課題解決の過程を繰り返すこと、手段は一回ごとに変化しよりよいものに成っていくのです。」

「目的を結果としてもたらす原因を手段として構想する」、というような目的手段関係と因果関係の関わりをまとめた指摘がある。問題は、この手段の変動性の認識ということにつきる。物としての道具は変動性をもっている。放っておけば劣化するモノでしかないが、わたしたちはそれに手を入れる。手入れをすることによって、モノであった道具が生き物となってわたしたちの作業を生き生きと手助けしてくれる。道具としての手段には手が入っている。

インプルスが標準的でないことで、動作が標準的になる、練習は反復のない反復である。課題解決の手段をくりかえすのではなくて、その過程を繰り返すのだ!こうしたベルンシュタインの指摘は、わたしたちに「はっ」という気づきのインパルスとなっている。さっきの見事なサーブを取り戻そうとしてもはやそれは手の中にはない、手掛かりとなるものを探していっても、とりもどせなくなってしまう。であるなら、まずは確実なものとして手中にあるものだけは絶対に手放さないでおこうと練習にはげむ!という思考回路へのインパルスである。すでに手元にあるものを使うだけではその手元にあるものによって解決される課題だけが解決されるだけで、質の違う課題に対応することはできないことはわかっているのだが、やめられない!失敗やエラーに弱くなって、保守化し、無限後退のスイッチがはいってしまう。なんとも、歯がゆいところである。練習で染みついたこうしたスイッチは試合の場面での実際のパフォーマンスでも機能を発揮することになり、エラーをおそれ、失敗に過剰に反応し、自分を無限後退の循環にたたき込んでいく。なんとも情けないはなしである。
確定されている手元にある知識や技術を反復記憶するという学習や練習の悪習をぬぐい去ることはそう簡単ではない。構造改革ではないけれども、わたしたちの運動観やスポーツ観、そして生き方そのものの根底に関わる問題であるだけに、そうとうしつこい食い下がりがもとめられるのではないだろうか?
ベルンシュタインの動作技能の概念定義はその根底にふれるところがある。

<概念定義>

「わたしたちは動作技能を、自在に課題を解決する能力にもとづいたコオーディネーションの構造と考えています。動作課題の意味は多様ですから、技能も、構築レベルに対応しているものの、そのレベルとは無関係に、いろいろな意識的動作に応じて洗練されるのです。」

腕のバックスイングの例でもふれたように、一つ一つの体節の動きや筋肉の活動は、構築しようとする技能に応じて変動する。同じ人間がやっているのであるから、わたしの腕はわたしの腕であるものの、その動きたるや、いい意味でもわるい意味でも「わたしのものではないみたい」になることはいくらでもある。スタートの合図によって動きをはじめる練習をつづけていると、他者の合図がないと始動できないような技能がつくられる。状況を判断して、自分の始動のタイミングをみつけるという技能に、構造転換をはかろうとすると、これがなかなかやっかいである。パフォーマンスの構造、転移や干渉、トレーニング構造、の関係に注目があつまっている。
さらにやっかいなのは、この転換が意志的な動作をとおして行わなくてはならないというところである。すでに自動化して当該のレベルで安定性をたもっているような動作を、一度上位の意識レベルでチェックしつつ、新しい動作技能の要素として関係づけをリニューアルしながら、再度自動化させなくてはならない。当然、旧のより「合理的」な修正機構がはたらくわけであるから、それを抑制して、不合理なものを覚悟しながらの練習がもとめられる。初学の苦しみも大きいが、学習し直し、似た構造に転換することの苦しみも深く、時間もかかってしまう。しかも、この時間は無駄なようにおもえ、鉛色の焦燥につつまれてしまう。

<再び長時間性を考える>
試行的動作・アクティブエラー・バリエーションを遊ぶ!

こうした定義を背景に、ベルンシュタインは再び、技能構築に時間がかかってしまう、その原因を探る。

「以上のようなことから、長時間性の原因を考え直してみると、二つのあらたな原因がみえてきます。技能獲得の初期に見られる原因と後期に認められる原因です。
初期の原因としては、技能を洗練していくとき、中枢では、あらゆる意味で最適な課題解決法が、時間をかけてアクティブに探索されるということです。中枢は、アクティブに、いろいろなことを試し、間違ったり、適応したり修正したりします。その結果、もっとも正しく、素早く、合理的で、巧みな解決法が調達されます。最適な解決法を探し当てるにはたしかに時間がかかります。自動性がまだ発生していない初期にはとくにそうです。」

アクティブな試行錯誤、適応と修正!それによる最適な解決法の発見。条件反射理論では「定位反射」とか「なんだろう反射」と言われるが、ベルンシュタインでは、アクティブに既存の動作構造やコオーディネーション構造を壊す、という、少々荒っぽうニュアンスがある。新しい課題に出会ったときに、なんだろうと首をかしげてみたり、きょろきょろみまわしたり、ふってみたり、においをかいでみたり、ちょっとだけ噛んでみたりと、まずは、いろいろな動作によって、なんとかその対象との関係をとろうとする。初心の内容は、この多様な試行的動作をともなうものであり、この動作なくしては初心といわれるものも宙をさまよってしまう。

「後期にみられる原因としては、課題と、その背景となる状況が、動作、コオーディネーション、修正と同じく、標準的でないということです。中枢は、新しい課題にであうと、それに関わる感覚的修正に必要なおおくの情報をうけとります。技能が自分のものになっていく中で、中枢は非常に多くの課題のバリエーションに直面します。心理学者がいうように、技能形成というのは、こうしたバリエーションで遊ぶことです。バリエーションに直面しても、課題の難度があがっても、見間違いや脱自動化がみられなくなり、最適なコオーディネーションを自在にできるようになります。バリエーションの幅が大きくなり、対応できる難度もあがってくること、これが技能の確実さがました証拠です。初めの段階では、課題解決を意図的(意識的であれ無意識的であれ)にばらつかせること、バリエーションを豊富にすることが重要ですが、次の段階では、課題そのものと周囲条件のバリエーションに注意を向けていかなくてはなりません。このバリエーションでの”遊び”には当然のごとくに時間が必要なのです。」

バリエーションを遊ぶ!初期段階では、動作そのもののバリエーションが、次の段階では、環境条件や課題そのものバリエーションが遊びの対象となる。なかなか、こうした遊びの感覚というのは受け入れにくいものがあるけれども、わたしたちのゲームの対象になっているものが、変化やバリエーションを旨とする運動のなかでも、とりわけもっとも変幻自在な運動であるところのスポーツ運動だけに、こうした遊びの精神はスポーツマンシップの根幹にかかわるものだということはできそうである。

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2007/08/10

コオーディネーション的思考 63

ベルンシュタインの問い その9
--論文「動作技能の発達」(ドイツ語版)---

ベルンシュタインの論文”動作技能の発達” のドイツ語版を院生のゼミで読んでいる。おりしも、工藤さんの「デクステリティー」 が出版され、この論文とかさなる内容が日本語でよめるようになった。ベルンシュタイン理解がますます加速される雰囲気がでてきた。なんだか感慨深い。
ベルンシュタインを知るのは、1977年に1976年版「動作学(Bewegungslehre)」の勉強をはじめてからだから、かれこれ四半世紀以上のオツキアイということになる。わたくし自身の運動理解はどのくらいふかまったのだろうか、学び始めのころの初心、いや無心の問題意識はどこのあたりにあったのだろうか、などと、反省回路にスイッチをいれることもできる。でもね、すでにあきらかなことなのだが、運動の理解は逃げる!のだから、その場その場で、ウナギ掴みよろしく、かるく手を添える、くらいがちょうどいいのではある。ウナギの身もだえに反応してしまってぎゅっとリキムとかならずその動きについていけずに、引力に彼女を奪われるはめになる。それでも、ウナギはおいしい(と言われている)からつかみかかるのだが、最近ではそういうハングリーもあまり身近なものとして感ぜられなくなってきているようだ。

論文「動作技能の発達」の周辺!

この論文に関心をもったのは、クルークさんの研究がきっかけであった。「ライプチヒの風車」でふれたが、1996年に開催された第二回のドイツスポーツ科学会のトレーニング科学とスポーツ運動学の合同シンポジュームで、「トレーニング科学からみた動作コオーディネーションとスポーツパフォーマンス」と題した基調講演をまとめた論文である。クルークさんは、シュナーベルさんが1992年にライプチッヒ大学を退官した後、すこし間をおいて、一般運動ー/トレーニング科学研究室の主任教授となり、現在は、ライプチッヒ大学スポーツ科学部の学部長である。この論文で引用されているのが、「動作技能の発達」である。ライプチヒスポーツ科学・交流協会の高橋さんにお願いして、監修を担当されたシュナーベルさん手持ちのもののコピーを手にすることができた。実は、この論文のドイツ語版の存在はなんとなくしっていたのだけれども、例のドイツ語版論文集「動作生理学」(1975,1987)を追いかけるので精いっぱいで、なかなか探索するところまで手がまわらなかったのだ!
さっそくシュナーベルさんの序文をよんでみた。

「1947年、ベルンシュタインの基礎文献”動作の構築について”が出版された。この本で示されている人間の運動(Motorik)についての理論、そしてコオーディネーションの本質や現象についての理論は、学際的なひろい知識、当時としては最高レベルの知識にもとづきつつも、独自の長年におよぶ、新しい道を開く研究に足場をおいたものでした。ベルンシュタインがその後書いた論文の着想はここから発しています。その後50年という科学の進歩があったとはいえ、この本の理論、そして実践や経験をとおして確かめられた事柄の多くは、今日でもなおその光をうしなってはいません。ところが、ドイツ語と英語で公になった、ベルンシュタインの論文集では、この本からのものが見当たりません。こうした事情がきっかけになって、スポーツやスポーツ科学にとってたいへん重要な8章”動作技能の発達”を、ドイツ語に翻訳しようと思い立ったしだいです。このマヌスクリプトのもとになったものは、ドイツ体育大学で1958年に翻訳したものです。当時は、ソビエトでベルンシュタインが中傷され誤解の渦中にあったころでした。・・・」

1947年にスターリン賞をうけた「動作の構築について」という専門書の第八章がこの「動作技能の発達」で、それを1958年シュナーベルさんたちがドイツ語に翻訳した。今回手にしたものは、1996年の改訂版で、応用トレーニング研究所の資料集として再編集されたものである。工藤さんの「デスクテリティ」にも、同じような部分があるが(第六章練習と運動スキルpp.204-254)、重なるところとそうでないところがある。読み比べていただくと、なかなかおもしろそうだ。
シュナーベルさんたちの運動理論やトレーニング理論の研究という点からいうと、1961年に「マイネル動作学」、1968年に論文「動作コオーディネーションについて」、1976年に「動作学」、1987年に「動作学ースポーツ運動学」、1994年に「トレーニング科学」初版、1997年に「トレーニング科学」第2版、1998年に改訂版「動作学ースポーツ運動学」、2003年に「トレーニング科学」第3版、という具合に展開するが、いずれの研究も、ベルンシュタインの理論が重要な土台の一つになっている。
とりわけ、「動作コオーディネーションについて」という論文では、ベルンシュタイン、アノーヒン、チャイゼらの研究をしたじきにした運動理論の構想が示されている。70年代にはいると、ライプチヒやグライフスバルトなどの院生や若手研究者をあつめてベルンシュタイン研究会をたちあげ、コオーディネーションというテーマにしぼって、縦断的な発達研究(ヒルツさん、ヴィンターさん)、能力構造の研究(ブルーメさん、ティンマーさん、ティンマーマンさん)、トレーニング論からのアプローチ(シュナーベルさん、ハレさん)を精力的に展開することになった。
なぜこれほどもまでに、コオーディネーションにこだわりを持つのかということがはなはだ疑問なところもあるし、シュナーベルさんもふれているように、1958年というのは、ベルンシュタインが批判のまとにされていた時期で、微妙な問題も周囲にはあったに違いないと思う。それはそれとして、大変重要な運動学説史のテーマではあろう。

「動作技能の発達」を読む!

空気や水のようにわたしたちの生活をささえているものが、一気に意識の対象となり、社会的な問題として現象してきている。日常の何気ないものが何気ないモノとしてではなくて、なにか違和なモノとして立ち現れる、そのことを思惟の対象としたのがフッサール等の現象学の流れである。あまりにも日常すぎて不思議に思わないことがらに、思惟をめぐらすことは思いのほか面倒なのだ、ということぐらいは理解できる。何気なく日常生活のなかに浸透していて、しかも、それがわたしたちの常識として共有され、日常会話や頭のなかでの内言として反復されることにでもなると、ますますたいへんである。これをあらためて問い直すということ。それは見た目グロテスクなことだし、非のラベルをはるだけでは、それ以外のすべてを漠然と指し示しているにすぎない。たとえば、あまり使われていない山道からそれてしまうのではないか、というような不安や恐怖を感じる瞬間でもある。日常性の底がわれてしまうことの不安がこうした思惟をすすめるときにはついてまわることになる。
学校体育だけが運動の学びの場ということではないけれども、そこで形成される運動観というようなものが明文化されずに、なんとなく、雰囲気としてただよっているようなところがあり、その雰囲気のような運動観がわたしたちの日々の運動の想念にフィルターをかけてしまっているようだ!このフィルターそのものを明るみにだすことが本連載の究極の目標であるのだが、なかなか奥歯にものが挟まった状態、目に見えない棘が指先に刺さったような状態、から抜けられない。もっとすっきりとこの邪魔者をとりのぞきたいものだ。
ベルンシュタインは動作技能の理論の前史を次のようにまとめている。前号でもふれた、反復練習を柱とした動作技能や運動スキルの形成理論を、ベルンシュタインはこのトゲとして明示する。筋肉や靭帯などの末梢の運動装置に注目した時期から中枢装置に注目がうつり、そして、ベルンシュタイン自身がまなび、そして、研究の足場としてだれもが疑わなかった・疑えなかったパブロフの条件反射理論へと、その探索と批判の論議がすすむ。

<動作技能理論の前史>
動作技能の理論は、その度ごとに動作の形成に大きな影響をあたえてきました。

<末梢の時代>
むかしは、練習といえば、骨格とか末梢の装置に関心が集中していました(筋の力の発達がねらいとなっていた)。そのため、作業労働や体育、芸術分野で指導する教師たちは、筋や靱帯など末梢装置のトレーニングに注意をむけ、こうした装置の”鍛練”法の体系がいろいろと提案されました。靱帯や腱の引き伸ばし(ストレッチング)、筋の直接マッサージ、マッサージ的な効果をもった体操(ギムナスティック)がそれです。動作技能は末梢メカニズムから説明できるのだという確信から、技能の鍛練はできるだけ早い時期からはじめるべきだというような考えもでてきました。小さい頃は、骨組みがまだやわらかで、結合組織も伸びがあり柔軟な時期だから、というのです。

<中枢の時代>
20世紀が近づくにつれて、中枢神経系が技能形成に重要であることが明らかになり始めました。とはいえ20世紀初頭の生理学はまだ、コオーディネーションにおける求心性の重要性についての正しいイメージをつくるまでにはなっていませんでした。動作技能は、精練によって形成され、中枢神経系に局在するものであるという考え方が出てくると、注意は、脳の効果器系、すでに研究のすすんでいた錐体路装置に向くようになりました。トレーニング、ギムナスティック、では、手が練習されるのではなくて、脳が練習されるのだというイメージは、最初パラドクスとして受け取られましたが、ゆっくりと教師の意識のなかにしみとおっていきました。

<条件反射理論の登場>
こうした考え方に大きな助けとなったのが条件反射理論でした。その基本テーゼは、この時期(20世紀の最初の10年)に作られひろまりました。その基礎となっている仮説は、さほど新しいものではなく、唯物論にもとづいた精神神経学によって19世紀の終わりにつくられたもので、マイネルトらの、厳密な実験にもとづいた仮説でした。それをパブロフらが引き継ぎ確かさなものにしたのです。
中枢神経系に痕跡が残るという事実は、こうした仮説を基礎づけるものでした。それによると、条件結合をなんども反復すると、その結果が脳のなかに適切な伝導路を形成する、というものでした。こうした新しい事実と、その基礎理論がもっている説得力、そして確かさを信じさせるにたる力は大きなもので、希望としてうけとられました。ひろい範囲の人に影響し、とりわけ唯物論心理学の全体構造が条件反射理論にもとづいて構成できるという確信を生み出すほどでした。当然のことですが、この理論は、動作技能とその発生の問題の説明に使われるようになりました。動物の条件結合の確定と、人間の動作技能の形成の比較、そしてその教条的な解釈によって、両者とも、反復の成果であり持続的な練習の成果なのだ、とされました。
条件反射の理論の信奉者たちは、しかし、この両者の原理的なちがいに気づくことになります。これは、時間がたつにしたがってはっきりとした形となって、狂騒はじょじょに静まりました。

<受動性>
第一の根本的な違いは、動物の条件結合の実験は、作用する刺激に対し動物は完全に受動的な状態のもとで行われました。実験動物では、睡眠抑制がおこり、条件反射の実験のときに悩みの種になっていたのです。これに対して、動作技能の形成では、あらゆる段階で、作用の受動的な受け取りはありえないことなのです。むしろ、目に見える形という点でも、運動練習の本質という点でも、能動的な精神運動活動なのです。この集中した活動は、一種の建築仕事として、動作技能を生成させるのであり、この本の題名である、動作の構築について、が示すところです。

<モノトーン>
第二に、この仮説のなかで、条件結合による神経伝導路の形成は、なんらかのモノトーンなものとして描かれており、その発達は、同じ質をもったもの(ホモ)の量的な拡大とされています。動作技能の形成ではむしろ、異なる内容をもち(ヘテロ)、質的に区別できるようなメカニズムをもった、互いに分離できる位相が連鎖をつくっていることが見て取れます。動作技能の精練は、行為の連鎖で、そこでは一つの分節さえもなしですますことはできませんし、その系列順序を入れ替えたりすることもできません。それについては、水準Dに対応した対象的行為の連鎖を観察するとよくわかります。動作技能自体は複雑な構造です:そこには、優位水準と従属水準、主分節と補助分節、本来の意味での背景、自動性、いろいろなコード変換が含まれています。同じように、その形成過程も、質的な構造という点で複雑です。
動作技能の形成は、条件結合の伝導路形成であるという仮説は、実践上の問題をはらんでいます。というのも、モノトーンで受動的な練習が正しいものとされ、そこでは、なによりもまず反復の数が強調されるからです。こうした練習の効果はほとんどないにひとしく、それに対する批判や、まとまった検証を行うことが必要となります。

<長時間性>
動作技能の精練についての、伝導路形成(道作り)という理論は、さらに次の点でも不明確です。条件反射の理論家たちは、条件結合の伝導路形成がたいへんゆっくりとしたもので、長時間性をもっている、としています。伝導路形成という課題と長い時間をかけて取り組むために、練習にはどうしても長い時間が必要だとされています。長時間性は、中枢神経システムのもつ理解能力の形成には時間がかかるということに原因があるとされていて、犬の条件反射実験から得られた考え方でした。中枢神経系で伝導路がすこしづつ形成されていくのは、モノトーンの練習にその原因があると考えると、この数週間という期間は理解できます。しかし、無関心ではいられないような感覚であれば一回きりでもすぐに把握できますし(犬でもそうなのだから、なおさら人間ではそうである)、生物電気的な構造としての神経系の生理学的な伝達スピードは相当のものがあるのです。いろいろな中枢に同じものが刻印されると考えるのではなくて、いくつかの脳レベルからなる感覚運動システムが能動的に構築されるのだ(位相段階がある)と考えると、この長時間性という問題はちがった面をみせることになります。

以上、最初のところの抄訳である(<>の見出しは綿引)。「デクステリティ」の204ページから210ページを是非あわせてよんでいただきたい。ベルンシュタインの視線の先にあったもの、さらには、その先にあったものからのさまざま働きかけ、そのようなことを考えると、重たい気分になる!今回のまとめとして、工藤さんの訳をお借りして、ベルンシュタインの視線の先にあったものを考えてみたい。

 条件反射が形成されるまでには、まるまる数ヶ月もかかる。現実の日常生活では、イヌでも人間でも、何十回も繰り返してやっとある印象をおぼえ、記憶に固定するわけではない。新しい印象に慣れるのに数ヶ月もかかるような動物が、生存競争に勝ち残れるわけがない。そんなぼんやりした種は、厳しい現実に立ち向かうことなどできず、滅亡の一途をたどることになるだろう。(デクステリティp.209)。

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2007/08/09

コオーディネーション的思考 62

ベルンシュタインの問い! 8
ーー運の動ーー

リスクたっぷりの場面をつくって、そこにむかって零戦のパイロットよろしく、大きな声をはりあげて(おかあさーん)つっこんでいく。命がけの飛躍としての、身体商品の源イメージ!?はたまた、メディアコーチの傍らで、冷静な計画にもとづいてマネージされたパフォーマンス!いずれにしても、この時代のスポーツにはシンボリックな意味を先取りするために捧げられる羊の役割があるように思われる。ドーピングの時代があった!わたしたちが日常的に消費しようとしている「オーダーメイド医療」への一つの先導であった。記録や勝利は、スポーツメニューにしたがってオーダーされる時代に突入しつつあるようにも思われる。
商品はそれがどのようなものであれ、消費と生産の間の微妙な力関係から自由であることはできないし、その力関係こそが商品の命である。運がよければ生産者から消費者へと所有者が移動し、商品はこの力関係から自由になって、消費者の消費の対象として、もうすこし命をながらえることができる。しかし、少しばかりの延命よりも、いさぎよい売れ残りを選ぶこともできそうだが、市場の拘束から自由になることはできないし、まして、市場には、そうしたスペースなど用意されてはいない(在庫、売れ残り)!いずれにしても、この「運」に賭けるということ以外に道はなさそうである。
スポーツする身体という商品がどのような市場のメカニズムによって生産され消費されていくのか、たいへん興味深いところである。スポーツ身体ではなくて、むしろ、スポーツ運動の商品性を云々することの方が合理的なのかもしれない。身体商品(身体の売り買い)というと、奴隷的なニュアンスがぬけきれず、近代の法律上、身体の排他的な占有という概念系は、いまだ問題をはらんでいるからである。「わたしの身体」と声だかにさけぶと、それは奴隷制の王のコダマとして反響するという、なんともやりきれない矛盾にわたしたちの身体はからめとられている。スポーツ運動の有用価値と交換価値がどのように生産され、消費されていくのか、はたまた、その商品価値を決定する物差しとなるものはいったいどのようなものなのか!その相克が演出されるプレー・マーケット・パフォーマンスの現場にも心がおどるところである。

ベルンシュタインからヒントをもらって、運動の分類をこころみている。運動アフォーダンス理論からすると、コオーディネーションは人工的な、社会・経済的な環境との間に成立するものであるから、当然人間の歴史的な制約のもとにある。その意味でも、プレー・マーケットの分析とベルンシュタインの問いの連結の試みも無謀なこととはいえないだろう。プレーのデパートにならぶ商品群やパッケージングに魅了される。

支持・バランス運動系を嫌う!

わたしたちの社会はバランスを乱す環境変動を少なくしようと、その条件コントロールに努力してきた。あらゆるところで環境要因のバランスや平衡をたもち、身体機能の安定性を確保すること、イコール、安楽な生活・文化鍋的生活という構図をつくりつづけている。もちろん、宮廷の庭に代表されるようなシンメトリーがどこかに対称性の狂いを組み込んでいて(抜け道とか隠れ扉、回転ドアや隠し部屋、屋根裏部屋)、そこに落ち着きとか隠れ場所をしつらえるということもあったにはあったろう。和辻ではないが、モナリザの背景にあるシンメトリックな樹木に合理をみる、ということも少し大げさすぎるようにもおもうし、隠された非対称を探すことの方に興味がそそられはする。しかしできるだけ安定した環境条件というものに向かう飽くなき欲望こそが問題で、生体に内在する基礎的なコオーディネーションの外在化・人工化が進歩の徴表の根幹の一つになっているようだ。運動の側からは、バランスが乱れたり狂ったりする環境は少なくなり、平衡機能はその働きを求められなくなる。平面化した道路、階段、廊下、グランドは、バランス調節を必要としない。小さな環境変動によって、身体機能がダメージを受けることになるリスクを孕むことになった。バランス・支持運動系の外化と、環境変動の極小化によって、わたしたちのもっている内在的な運動系は手つかずのまま、耕されない自然としてあれ放題となっているといってもいい。そのあれ放題の大地に鍬を入れ、耕す作業こそが運動文化(Bewegungskultur)の原義である。

移動の機械化

モダンは電脳イメージと近いところにあって、そこには大きな歯車や油まみれのピストン運動のイメージはないようにみえる。近代の原点にある表象には、蒸気機関車(スチーム・ロコモティーフ)がある。移動の機械化こそが近代であるということもできる。その反面わたしたちの移動運動はどうだろう。櫓の漕ぎ運動はスクリューの回転運動に、自転車の漕ぎ運動はエンジンの回転運動に移植され、わたしたちは移動機械の操作や操縦の役割を演じる。漕ぎ運動と合体していた操作・操縦の運動が独立し、移動するものと操作・操縦するものとが対立する傾向をもつ運動の世界が産まれた。移動の機械化は、わたしたちの移動の静止化という運動を強いる。シートベルトはチャイルドシートよろしく、最初から移動中のわたしたちの運動を忌み嫌う。
運動学では、「物体の位置・場所の変位や移動」という運動の定義がもちいられることがあるが、その背景には、メカニクス(力学・機構学)という単純な道具だての思惟が前提になっている。物体自体は不変のモノという前提があるので、移動も、したがって、不変のモノの移動ということだ!移動中のモノの変化は危険であるから、こうした単純な道具系では移動中のモノの変化をゼロに近づける。
変な話ではある。移動は運動であるはずなのに、移動している間に運動をやめないといけない、という論理矛盾にであうということになっている。そのために、荷台の荷物はしっかりとしばらなくてはならず、わたしたちもつり革につかまり、シートベルトにがんじがらめになる。知的な作業のときにも、静止がよいようにおもわれていて、机の前にすわって、本をよんだり、ノートをとっていると、なんだか、勉強したつもりになることがあるけれども、基本システムはけっして動いてはいない。

操作運動の機械化

移動運動系の次に、機械は操作運動系を標的にし、それを飲み込んでいく。サイバネティックスの語源を辿る必要もないだろう。道具や機械を操作する人間の知覚や運動が工学的に分析され、その要素と構造を機械におき替えること、これが工学の焦眉の問題である。「機械によって担えるように」という点が大切で、いわゆる単純化だ。人間の場合は簡単なことでも、たいへん複雑なメカニズムをつかっているのだが、機械化というのは、複雑なことを簡単にこなせるようにする、ということだから、より目的合理性というところが肝心だ。作業がより複雑に難しくなって、それまで以上に苦労しないといけなくなるような道具や機械はこまりものである(最近そういったこまりものの道具類がふえてきているようにもおもえるのだが)。機械の歩きと人間の歩きにはどこにも共通点がない。人間がしてきたことを機械ができるようになった、というのは間違いで、機械は機械にしかできないことをしているだけだ。
操作対象に目をうつしてみよう。そのレンジはひろがり、空間の延長はわたしたちのイメージの現実性を毀損する。プライベートな私的イメージの尺度が危うさをます。無限にイメージはひろがるのではあるが、現実の私のイメージの空間は等身大のままで、いま・ここ・この、への拘束感がますばかりである。イメージの操作感のこうした乖離傾向は、はたして、狂気を準備するのには十分な土壌となっているのではないか、という指摘もある。しかし、イメージのイメージ自体が視覚的なものということを根拠にしている限りにおいて、この問題からは離陸できないのではないか?
操作運動の機械化には、時間の均質化が必須である。濃密な時間をすごした後でも、やはり列車は定刻とおりに駅を出発するし、退屈な授業であっても、かならず終わることになっている。逃がしといわれる部品と歯車、そしてその歯車に回転のエネルギーをあたえる重り、というきわめて単純な装置は、同じ間隔の時を刻むという仕事を見事にこなす。ラタッシュの編集した「運動科学の古典」のなかで、Meijerは、このあたりの事情をNeedmanとWangの「中国における科学と文明化」からの引用として、次のように指摘している。

「時計は、複雑な科学的な機械のうち、もっとも早く、もっとも重要な発明である。時計のあたえた、近代科学の発展という世界の外観への影響ははかりしれないものがある。・・・(動力を与えられた連なりの)進行を、同じ持続間隔に細かく刻んでいくことによって、定常の運動を確保するという問題を根本から解決したことは、天才の仕事と考えなくてはならない。」

目標運動系の「自立」と目の優位

わたしたちの社会では、コントロール(統制・評価)が重要な作業となってくる。その作業の効率化のために、コントロールする側もされる側も視覚的な図式に慣れ親しむことがもとめられる。子供を小さいときから一カ所にあつめる公的な制度・学校、への「登下校」という言葉のもつ意味は深い。登りや降りは、家庭が起点で、学校が到達点となる。そういえば、神経系にも上向路と下向路があり、上意下達は、ベルンシュタインの批判した中枢主義の言葉である。教室、席順、名前順、成績順、打順、などなどの基礎的なオーダーシステム(秩序のシステム)と一望監視システムについての分析は、フーコーの仕事として了解されている。外在的なコントロールから、その内在化・学習の成果としての自己評価・セルフコントロールは、目標運動系の「自立」とそのもとでの運動の視覚像にもとづく静止化へとつらなる。『イメージ』のイメージが、視覚的な静止画像の連続としての映像の範囲を越え出ることが求められているように思う。
近代は、絵画を中心とした静止映像的なイメージの優位を、あるいは、それを範型として、芸・術の価値が評定されてきた時代であるという 。絵画を範型とした芸・術、ということは、技芸・技術の枠付け、そして平面化・二次元画像への構成、という意味を持つ。絵画の中の身体の静止像と、その静止像の背後にある物差しとしての均整性。均整とは、平均された身体と整序化されたその姿勢である。フーコーの『監獄の誕生』の見開きの図像のなかの一枚に、物差しをもった聖女が微笑みを浮かべたものがある。身体の均整・見栄えは、表層を嘗める視線の働きを意識し、その働きによって、内容の均整性を伝達する(ぴかぴかに磨き上げられた自動車のボディー)。身体は、視覚によって狙われる標的・対象となり、身体像は、視覚像としてわたしたちの目にふれる。身体は視覚の対象以外のものではなくなり、観照の対象となる。『身体〜』という書物の氾濫は、その底に『身体的な』感覚を追い求める人間の望みが反映しているように思う。だが、『身体〜』という表記では、身体感覚のうち、視覚静止像のみが強調される。『身体〜』論よりもむしろ、運動の、筋肉感覚の、そしてスポーツの論理が求められている。
「置き忘れられた身体の復権」という主張は、身体を明示的なイメージとしてあらわにする働きをしているのではあるが、その運動性能を隠してしまったようである。「身体は、運動性をもち云々」の表現は、身体が実体で運動性はその「一つの属性」に過ぎない、という主張である。いろいろな属性のうちのひとつで、散逸してしまうに過ぎない一過性のものというニュアンスがある。身体の復権と運動性の隠蔽は、運動の手段化し、健康のためとか認知活動の基盤づくりとか、その範囲ではじめて運動性は、人間の属性の構成要素として、その資格を得る。

練習運動の反復性

外在的なコントロールの内在化。他者コントロールから自己コントロールへ。それを可能にする役割の一つをになったのが学校体育であった。近代の調教的な体育の問題については、ケーニッヒの詳細な分析がおもしろい。グーツムーツのギムナスティックの練習運動体系(この場合の運動は、movementではなく、練習を意味するexercise)は、「精神の言うことをよく聞く身体の形成」に狙いをつけていた。人間愛につらぬかれた体育教師(グーツムーツたちの教育運動は、汎愛主義(philoanthoropism、philoは愛、anthoropは人類・人間をさす。直訳すると、愛・人になるが、不謹慎な訳語なので、人類に対する普遍の愛という意味で、汎愛。ちなみに、philosophyは愛・知)にねざし、1800年前後の、遅れたドイツの近代化にむかう黎明のころに生まれた。文明化・近代化に遅れをとった彼らは、ルソーの理想主義、デカルトの合理的な身体論、などを背景にしながら、ギリシャの民主国家の体育に範を求めてそれを再興しようとした。「学校的な体育」の原型がそこにはしめされており、わたしたちの運動に対するまなざしを自省するときに、たいへん重要である。
反復不能の運動を、反復練習として囲い込むこと。運動には本来なじまないはずの再現性とか意識性、形式的な論理性を、反復練習によって、運動のなかに書き込むこと(亀裂をつくる)。運動は、体育教師や指導者のコントロールの視覚に補足される範囲で初めてその命を確保することができる。しかし、視覚でとらえられる運動は静止をむねとする。運動はこうした視覚的なコントロールを嫌う。運動は視覚から逃げようとする、運動の視覚による捕捉とそこからの一瞬の逃がしこそが、近代の身体教育の大発明であったように思われる。指導者の目が徐々に実施者の目となっていくには、この「トドメ」と「逃がし」の反復が必要となる。できるだけ大量の身体運動を一気に操作するという意味での「身体の操作」が「体操」の原点にあったように思う。その一気の操作を自己の内側で完結することが体操の習慣化であった。
そのためには、どうしても、同一のものの反復という練習運動の機械化、あるいは、「トドメ」と「逃がし」による同一持続への運動の切り刻み、それを根拠づけるパブロフの条件反射学がどうしても必要だったのであり、号令と整列、測定と記録、体力検定は国家の必須アイテムとなった。
わたしたちの身体・運動商品を考えるキーコンセプトとして、トドメと逃がし、顕現と隠蔽、みるとする、などを、運動の皮膚にささった棘のようなものとして引き抜く作業をしてみた。運動階層論は、社会経済的な価値性を自動化して体内化し、安定的な運動システムを構成するための重要なヒントとなっている。わたしたちの消費的な生活や生産的な作業を合理的目的的なものにするためのいくつもの手がかりがある。力を執行する側にとっては、これほどまでに便利な道具は他にない。そのような気づきこそがベルンシュタインに心をゆさぶられる所以のように思う。ベルンシュタインからヒントをもらって、わたしたちの運動の源・元と現とをつなげる作業をしてみた。ベルンシュタインの発生論には、科学者らしい謙虚さがあって、だからこそたいへんドラスティックなインパクトを与えたということもできる。わたしたちが通常意識できる再・現性や合・理性をもっている所作や行為の背後にあって、そのメカニズムを根底において揺さぶる働きを顕在化した彼の仕事を脅威ととるのか、それとも驚異ととるのか、わたしたちの運動の自省次第というところであろうか?!

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2007/08/07

コオーディネーション的思考 61

ベルンシュタインの問い! 7
機能の面から運動を分類する

「本当の自分は・・・・・!」という「種明かし」や「自分探し」などという怪しげな言説が市民(市場)権をえているようにおもえる。本当の青い鳥よりも、空飛ぶハリー・ポッターの方がはるかに現実味をおぼえるのはなぜなのだろうか?
こどもの運動がうまれていく現場を見ていて思うことは、はたして、一歳前後のこの時期のダイナミックな運動の変動を、将来記憶として再認可能なのだろうか、ということ!そして、言葉の成熟を経ない運動学習の成果がどのように、その後の彼女の意識の領分のなかにくみこまれていくのだろうか、ということだ。ひるがえって、私自身の運動意識の領分のなかの、いったいどの部分に、わたしにとっての幼いころのダイナミズムをやどしているのだろうか、という疑問へと展開する。無意識や深層心理の世界、はたまた、感覚運動的知能、などといわれていることがらにつらなっていきそうだ。「子をみて我を思う」である。連載の最初に、「初めからの物語」についてふれたのも、この点と関係がありそうだし、稽古という概念系にもつらなってくる。三つ子の魂百までも!
しかし、ここでのことがらを時間の言葉の面から考えると、すこしねじれている。こどもから学ぶというのは新しいことから学ぶことで「稽新」だ。もし稽古というのなら、老人とか偉大な先人(先生)から学ぶということがふつうだ。ベルンシュタインの稽古の精神は、だから、すこしねじれている。系統発生で古きをたずねながら、生後間もない新生児のプレロコモーション、幼児期のロコモーションや書字運動などの新しきを知り、学ぼうとする。新しい子供の動きのなかに古いものがつまっているという。「ねじれ」がある。系統発生的にずいぶんと古い時代に形成されたものを、個体の成長の早い時期に受けつぐのであるが、この受けつぎは歴史的には古きものである。新しいものに古きものをみる。現の運動の発生に、古きモノの現出をみるということになる。稽古とはしたがって、新しきモノとしての、現の運動の発生そのものを指す言葉だと理解することができる。古きをたずね新しきを知る!
わたしの運動の現出も、新しいものとしての古きものの現出ということになるだろう。わたしの運動の発生を学ぶということは、私の運動としてあたらしく現出する古きものを学ぶといことだ。
しかし、問題はむしろ次の点にある。つまり、ここでいう新しきものも、古きものも、いずれも「運動」だということ、正確に時空間のポイントを指定しても、「そこにはなにもない」。柱の傷や落書きのあと、額や膝についた傷、などにしても、運動によっておこったことの「遺跡」であるにすぎず、運動そのものはきえてしまう。ものとしての身体は運動してしまって他者になったり消滅することがあるが、運動そのものは運動して他者になることはなく、ずっと運動であり続ける。ここに、「私の運動」、「本当に自分らしい運動」というモノを求めようとする意識の過剰性や過誤がある。「わたしの運動だ!」という意識をもとめる限り、それはわたしの運動をモノとして扱うことにひとしく、したがって、生き生きとした現在の運動を運動化することはできない。むしろ、わたしの運動だ、ではなく、わたしの運動となるかもしれない、と表現すべきかもしれない!ある・なし系ではなくて、なる・ならない系の表現がもとめられる。
その意味でベルンシュタインの発生論は、運動という現象をなる・ならないの表現に移し替えることを目的とした論議だということになるだろう。したがって、階層システムの考え方にしても、それはあくまでも、実体としてそこにそのようなものとして存在しているのだ、というようにとらえてはならないように思う。条件反射説や連合理論、プログラム理論やシェーマ理論、安定した自動化のスキル理論、などなど、運動になる・ならない系の論理としてどの程度の適切さをもっているのか、改めてとわなくてはならない。

機能的な運動分類のこころみ!

ベルンシュタインのコオーディネーションの発生論にもとづきながら、運動分類をこころみてみたい。なによりも、わたしの運動は機能システムとして、トータルにはたらいていて、決して、水準論でしめしたようなそれぞれのレベルの運動が独立して自動的に出力されるなどということは、発生の一時期や臨床例をのぞいては、まずないといっていいだろう。トータルな機能発揮という面からの分類をあわせることによって、運動コオーディネーションの発生についての理解の間口がひろがるだろう。

支持・バランス運動系 
支持・バランス運動系とは、姿勢をたもったり、運動のなかで体勢を維持したりする運動だ。運動の連続写真をみると、どの場面をとっても、姿勢や体勢は崩れていない。このような、体のいろいろな部位の運動を、重力と関係させながら保つ働きをするのが支持・バランスの運動である。系統発生をみると、この支持・バランス運動系が複雑になる。運動装置の自由度がましてきて、重力との関係がより複雑になってくる。水中から陸に上がると、動物の体には重力の働きが重くのしかかってくる。人間でも、遠泳をしたあとなどに、この重力の働きがよくわかる。動物たちは、体幹を地面からはなして、四肢で支え、さらに木登りをして、体を真直ぐにたて、脚で蹴って上肢で引っ張る運動を覚えてきた。運動装置はより複雑さをますとともにその自由度もましてくる。一方では、バランスを取ることも大変に難しくなった。蛙よりもトカゲ、トカゲよりもサルというように、転倒の危険はますばかりだ。静止するときの姿勢についても、そのポーズは進化するにしたがって豊かになった。魚類はいつも泳いでいて、魚屋の店先にならぶ以外は、完全に静止するときはない。両棲類やは虫類になると静止してポーズをとるが、そのポーズは、機械が突然とまるようなもので、あまり豊かではない。動くときと静止するときがはっきりと区別されている。ある意味できびきびしている。
人間では、いろいろな姿勢でポーズをとることができる。水泳の飛び込みでは、逆様の状態でも美しい姿勢をつくる。射撃は、腕のぶれを少なくするバランスを必要としているし、バレーボールでは、回転レシーブの後にすぐ立ち上がって、次の準備をしなければならない。スタートでは、クラウチングの姿勢から体を少しづつ立ち上げていくことが必要で、もうちょっとで倒れてしまうかもしれないというギリギリのところでバランスを維持する。支持運動系というのは、主役になることはまれであるけれども、縁の下の力持ちのような働きをしている。

移動運動系
ある場所から他の場所までの移動するとき、動物によって、その動きはさまざまである。魚は、胴体をくねらせ、尾鰭をスナップさせて泳ぐ。四肢を地面の凸凹にひっかけ、胴体をくねらせて移動する運動は、爬虫類や両棲類に見られる。胴体を四肢で支えて、地面から離し、強く蹴りながら前進するのは哺乳動物である。また障害物をとびこえたり、調教次第では、複雑なステップも踏める。また木に登ることもできる。樹上生活中心の霊長類では、この運動が重要になる。 樹上生活によって、体は直立となり、肩や腰の関節の可動性がます。足—脚—体幹—上肢・頭部という長いキネマティックなチェインが真直ぐに立てられるようになる。さらにこの直立にしたチェインを移動させることは、バランスをたもつという点でたいへんに難しい。
人間の移動運動系の複雑さは、直立二足歩行にとどまらない。それまでの進化のなかで獲得してきた移動のしかたのほとんどを学習によってみにつけることができる。いろいろな方法で泳いだり、体全体をよじりながら移動することもできる。木登りも、ブラキエーションももちろんできるようになり、跳び上がったりすることもできる。水泳では、魚のようなスピードはでないものの、いろいろな泳ぎ方ができる。胴体をくねらせておよぐグライド泳法。脚の蹴りと腕の引きを組み合わせることで、水抵抗を利用したり、減らしたりする。スプリントでは、上肢—体幹—下肢の間にひねりをつくって、そのよりを戻しながら、上肢の引きの力を脚の蹴りの力に加えるようにして走る。

操作運動系

哺乳類と霊長類を区別するときに、上肢の運動が重要なポイントのひとつになる。二足歩行ができるようになると同時に、上肢は、移動するという働きから完全に解放されることになって、ものを操作する運動を専門に行うようになる。上肢は、操作運動系、下肢は、移動運動系をになうようになった。自然との関係として、採取—加工—消費という過程がつくりあげられて、食物と口との間に道具や操作運動がさしはさまれることになり、手の操作と道具の操作とがあいまって、この関係がますます複雑になっていくのである。
二足歩行は、上肢を自由にし、操作運動を行い、そのため、口は、固い食物の噛み砕きというよりも、混ぜあわせる器官となっていく。こうした道具とそれを操作する運動との相互作用のなかで、上肢から腕・手・指・指先という概念に対応する運動が分化し精密化していった。精密把握(指の先端でものをかるくもち、いろいろの細かい操作をする方法)は人類独特の能力で、握力把握(手全体でものをつかむ運動)とは全くことなる運動である。操作運動を考えるときに、視覚によるコントロールという働きに着目する必要がある。操作運動ができるようになると、口のなかで行っていた噛み砕きやかきまぜという操作を外で行い、視覚のコントロールをうけるようになる。ものを片手でしっかりつかみ、もう一方で道具を握って加工する。切ったり、焼いたり、かき混ぜたりする。道具やものを作るときに、細かな指の運動が必要となり、それも視覚によってコントロールされる。
スポーツの操作運動の特徴は、移動運動と結びついているということである。槍投げでも、移動運動によって生みだしたエネルギーを槍に伝えていくことが重要だ。反対に、移動運動を支持するように働く操作運動もある。歩や走の腕振り、走り高跳の、脚の振りあげなどであるが、移動のスピードを増したり、勢いをつける働きをする。スキーも、落下のエネルギーを使い、それをうまくコントロールして、スピードを確保し、バランスを維持する。さらに、操作運動は、平衡運動系と移動運動系を基礎にしている。バッティングにしても、キックやパスにしても、バランスの維持とからだ全体の移動運動が操作のよしあしをきめる。

目標運動系
操作運動系のところで述べたように、人間の運動コントロールには、視覚がたいへん大きな働きをしている。樹上生活を始めた霊長類は、立体視を得意として、自分の位置や食物のありかを視覚をもとにして知覚する能力をもっている。目標とするものを、視覚によってしっかりと捉え、自分の位置を把握する能力は視覚領の大きさをみてもうなずける。この立体知覚は、視覚、体制感覚、聴覚などをまぜあわせた複合感覚で、単なる見えとしての映像ではない。むしろ、見えているものと自分との配置関係、そこまでの距離、上下の重力軸などの感覚を含んだものである。この立体知覚をもとにした運動が、ここでいう目標運動系である。具体的な目標物との関係で、自分の運動をコントロールすることが重要な内容になる。
人間では、具体的な目標物というよりも、象徴的目標にもとづいた、シンボリックな目標運動系が発達する。将来の必要を予測して道具を作る。この場合、具体的運動は、自分の要求をみたす運動ではない。むしろ将来必要になるだろう運動のための運動である。時間や空間の奥行きを知覚し、直接の目標運動を基盤にして、よりシンボリックな目標を予測して、自分の運動をコントロールする。 
この運動系のもう一つの特徴は、フェイントやだまし合いだ。シンボリックな連鎖(意味や文脈構成)を利用して、相手をだましたり、フェイントを掛けたりする。相手の予測をうまく外すには、わかりやすいシンボリックな運動をして、意味を掴ませることがまず必要である。その意味を逸らすことができれば、フェイントは成功する。このような意味で、スポーツは、シンボリックな目標運動系そのものだといえそうである。 

練習運動系
鳥の羽ばたき練習や競走馬のトレーニング、鷹の訓練もあるが、人間の場合、特別に長い練習運動の時間を要する。ここでは、練習運動系の多様性、新奇性、そして知性の重要さを指摘しておきたい。
これまでの四つの運動系、そして動物たちから学ぶことは、その可能性の深さと広さ、そして可塑性だ。進化のなかでどれだけの運動が開発され、それをコントロールする精密なメカニズムがどれほどの水準にまで達してきているのだろうか?スポーツという文化を通して開拓できる運動の豊かさは、言葉では表現できないほどのものであることも確かだが、同時に、膨大な練習運動のシステムを開拓している。つねに新しく、興味をそそる、それでいて、能力の限界を越えていける力を育んでいるのがこの練習運動系である。練習は、その時の能力の限界を越える力をみにつけるという働きをする。すでに身についているスキルを反復すること、固定したり強化したりすることではない。それは、練習ではなく、反復にすぎない。たえず、限界を冷静に分析し、その限界を越えること、新しいものにチャレンジし、運動の経験を多様で豊かなものにすることである。その意味では、科学的な分析能力、新奇さを求める溌刺とした精神、いろいろなものに果敢に挑戦して、経験の幅を広げるアクティブさが練習を支えるポイントである。

スポーツ運動系

スポーツ運動は、五つの運動系をすべて内に含み、その間にいろいろな組み合わせを発見し、開拓し、蓄積し、発達させている。その意味では、人間だけがもっている運動系だ。絵画や音楽などの芸術と同じように、スポーツのテクニックは芸術的な価値をもっている。絵画や音楽の芸術的な価値を知るために、絵筆をとり、楽器の演奏をする。そして、すこしでもその価値に触れたいがために、努力をかたむける。スポーツも同じで、選手たちの妙技にふれんがために、ただ見るだけではなくて、バットを握り、ラグビーボールを蹴ってみる。そうすることによって、運動筋肉感覚によって、技芸的な価値をとらえようとする。

古いものから新しいものへ、新しいものからふるいものへ

六つの運動系の関係について最後にふれておかなくてはならない。ベルンシュタインも言うように、系統発生、そして、個体発生の初期には、支持・バランス系からスポーツ運動系へという発生の流れがみとめられるのであるが、生物的な成熟がすすむにつれて、この流れが反転する。つまり、新しい運動系から古い運動系へという発生(学習)の流れがみとめられる。この逆流や逆転の時期が性成熟期の初期、前頭前野の機能成熟や自己意識の生成期、運動的な意味での予測能力の成長期にかさなっている。言語と自己意識を獲得しつつ大人への道を切り開くこの時期に、運動の面からの考察が求められている。

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2007/08/04

コオーディネーション的思考 60

ベルンシュタインの問い! 6

夕方、少し元気がない娘の額に手をあてたら暑い!体温計ではかってみたら、39度を超えていた。お医者さんは、体温をあげて戦っている最中だから、といったが、その夜40度をこえた。二日目の夜も同じ、さすがに三日目の夜40度をこえたところで、再び病院にいって解熱剤を処方していただいた。次の朝には熱も八度くらいにさがって、少し元気をとりもどしたが、昼頃に発疹がでた。この時期特有の突発性発疹だった。発疹はまず体幹、それから四肢へとひろがっていって、三日目ころからその逆の順番でひいていった。一週間の出来事だった。
私も家内も、40.6度という体温計の数字に狼狽した。これまでみたことのない数字であったからだが、そのような激しい熱の戦争を娘が仕掛けていることへの驚きもあった。
ちょうど同じころ(2003/5/27)、京都大学の再生医科学研究所が国内初のES細胞の樹立に成功したというニュースを聞いた。ヒト胚性幹細胞というのだそうだが、万能細胞と言われあらゆる組織や器官をつくる幹細胞中の幹細胞で、再生治療用の臓器形成をねらった解離などの技術研究が急速にすすんでいる。クローンの個体を形成することは禁止されているものの、それまでの、ヒト胚等の利用(もちろん、その細胞は生きて成長するわけであるから、時間的に「それまでの」という限定はあまり意味をなさないし、期待されているのは、その細胞そのものではなくて、その細胞が成長してつくりだす人体部品の方なのだけれども!?)に寛容な社会をわたしたちは選んでいることを実感したニュースだった 。
娘の仕掛けた熱の戦争、人胚性幹細胞樹立の技術開発、生命の深層を考える出来事が続いた。

プレロコモーション

幹細胞ではないけれども、プレロコモーションの時期には、その後の運動世界の胚・萌芽ともいうべきものが発生する。ベルンシュタインの指摘である。

六か月から十二か月の間はプレロコモーション期である; 歩と走の準備期で、匍匐・はいはいが使われる。この時期では、歩や走の神経支配がコオーディネーション水準全体の同調した作動を内容といしている点がとくに重要である。
赤核—脊髄路水準( 小脳と協働して)をもとにして、
1.ダイナミックなトーヌス配分
2.交差性神経支配
3.平衡感覚器によるバランス調節
が生まれる。
視床—淡蒼球水準は基礎となる全身的な歩のシナージーを保障しており、筋のほぼ100 %がリズミカルに活動する。
線条体水準は、いまだ外の空間と関わりをもたない淡蒼球シナージーを、歩の外部条件、 すなわち地面の形状やでこぼこ、階段、傾斜、溝等に適応させる。
最終的には空間的領域の錘体路下位水準上部は、ねらいのはっきりとした運動を保障している: 例えばどこかに歩いてい行ってもどる、何かを取る、走りながらボールを投げる等々である。無目標に見えるもがき動作が他の動きにとってかわられる前に、移動の基礎となる、座位や起立に関係する運動が発達する。これは体幹や骨盤の筋群の活動、つまり全身のバランスをとるためのスタビライザー(釣り合い補正装置) に基づいている。この時期に、小さな支持面上で姿勢をとる能力をえる。このバランス保持には、平衡器官と小脳から錘体外路系に伝達されるインパルスに基づいた働きが必要である 。

やっとはいはいができるようになってからというもの、娘の運動世界は劇的にひろがっている。把握するという動きについてふれたが、これが形態をかえてはいはいのなかでいきづいている。手と足で床を掴むという巧みな動きである。そして、掴み動作の背景になっていた、座りで覚えた首と体幹を垂直に立てる動き、手を交互にむすんだりひらいたりする動き、足踏みにみられるような交互のペダリング動作などが、はいはいの動きのなかで、新たな姿を見せる。

掴む・はいはい

掴む動作の対象は、小さなものから大きなものまで、そのレンジを広げる。小さなものは髪の毛とか塵までをも摘む。よくもこんな小さなものをみつけたもんだ、と関心したり、あきれたり。対象がある大きさに達して、しかもそれが固定されている机や重い椅子だったりすると、それを自分の側に引っ張ってくる動作が、結果として、自分の体の移動や引き上げになる。はいはいと掴まり立ちである。はいはいでは、手と足で地面を把握するという動作に変態するのだが、その手足の把握動作を従えているのが、体幹の動作だ!実にうまく体幹は四肢の動きをリードしている。体幹が床を掴む動作をしているといってもいいくらいだ。右肘に右膝がおいつきそうになると、その膝を足がかりにして右腕全体と左膝が前にふりだされ、右腕と左膝が着地し、左膝が左肘に追いつきそうになった瞬間に.....という具合である。首をたてる動き、股関節と膝関節を直角にまげて体幹の下に引き込む動き、接地面積をかせぎ、腕全体を一本にした前足?!のリズミカルな動き、体幹と頭部を前に動かす、前足と呼応した後ろ足?!。

掴まり・立ち

さらに、把握動作を利用して、体幹を下肢の上に直立させるという難しい課題へと変態していく。それが掴まり立ちだ!大きな机がこちらに向かって迫ってくることと、こちらの体がそれに向かっていくことの違いはどこにあるのだろうか、などど考えてしまう。机にむかって体が引っ張りあげられる結果として、これまでとはまったく異なる世界が広がることだ。机の上は、はいはいの姿勢からはまったく見えないが、机の端に手の先を引っかけて、運良くそれを手がかりに自分の体を引き上げることができれば、机の上の地平が一気にひろがってくる。劇的な景色の転換がおこる。彼女は喜々としてこの掴まり立ちを繰り返す。
はいはいから掴まりだちの経過を詳しくみてみよう。
はいはいをつづけてしっかりとした交互の足運びができるようになる。太ももは、股関節の部分(体幹にくっついている部分)が太くなり(太いモモになる)、垂直に立てられている。これが掴まり立ちのときに役立つ。膝立ちから机の端に片手をもっていき、つづいて両手でその場所を手掛かりにして立ち上がる。頭と太ももが垂直になっているものの、まだはいはいでは体幹が横(前)倒しの状態になっている。この姿勢から、頭と太ももの間にある体幹を垂直に立ち上げることによって、膝立ち姿勢が完成する。その後太ももにかわって、片方のスネを垂直に立ち上げるのだが、この時つま先を前にもってこなくてはならず、片膝への重心の移動が必要だ。そうして、自由になった足の小さな指先で床を掴みながら、足裏でぎゅっと床を捉えつつ、両手で机の端を掴み引っ張り(押さえ)、垂直にたちあげられたスネの上に、横倒しになった太股を立ち上げ、残りの足を支持足の近くにひきつけながら、体幹と頭部をいっきにその上にもっていく。机の端にそって体幹が垂直に立ち上げられる。この瞬間に体幹と足はあらたな関係をもつ。足首、膝、股関節の角度調節、足裏のこれまでにない感覚、ずっしりと体の重みを支えるときの足裏の感覚が楽しいらしい。足踏みをしたり、膝のかんぬきをがくっとはずすような仕草、首をかしげたり、横をむいたり、バランス崩しを繰り返して「遊んでいる」。机の上にあるお菓子をつまむ指先の動きに一生懸命に集中しているときでも、足先をみると、畳を小さな指でしっかり掴むような動作をしている。

掴まり・座り

しかし、たったままでは生活できない。ましてや彼女にとってはまだ、歩行という手段を手にしていない。はいはいが唯一の移動手段だ。掴まり立ちの後始末をし、はいはいにもどって、他のオモチャや椅子のところにむかって行こうとすると、どうしても、あの忌まわしい掴まり座りをしなくてはならない。飛行機でも白鳥でも、着陸や着水の難しさは想像以上のものがある。
娘はといえば、ずるずると机の縁に体を押しつけて座ろうとするのだが、これがむずかしい。それにあわせて掴んでいる手や腕の力を調節することはそう簡単ではないらしい。おしり着地、しかも全体重をうけとめる衝撃的な着地をするので、ずいぶん泣いた!泣くぐらいだったら、立たなけりゃいいのに、と思ってみていると、こりもせずに掴まりだつ。
何がきっかけになったのかわからないが、とたんに泣かなくなった。足と腰を後ろにひいて、上体を前にすこし傾け、膝立ちを間に挟むことを発見したらしい。股関節を直角にまげる(その結果として衝撃的なお尻座りとなる)のではなくて、膝関節で太ももから上の落下を受け止めることになる。

掴まり・伝い・歩き

座りの不安もなくなったことからくる余裕だろうか、掴まり立ちの片手を自由にして、ばいばいをしたり、机をたたいたり、それから、頭をぐるっとうごかしたり、よこに傾けてみたり、なにやら声をはっしたりと、いそがしくなる。そうして遊んでいる間に、これも偶然だろうか、片足ても立っていられることに気がついて、足踏みをしはじめた。その足踏みの着地点が、あげるときの場所からずれはじめ、それをきっかけにわずかな上体の側方移動がはじまる。あぶなっかしいこときわまりない拙い伝い歩きのはじまりである。伝い歩きはモモを勢いよく引き上げる動作と踏みつける動作からなりたっているが、ここでも体幹のバランスがくずれそうになるのがおもしろいらしく、移動の手段というよりも、それ自体を遊んでいる、たのしくて仕方ない様子である。直立2足歩行まで、後一歩のところにきているのであろう。

結果としての立ち上がり姿勢から、それを構成している頭部、体幹、ふともも、すね、の垂直な立ち上げの過程を観察すると、以上のようになる。しかし、次から次へと新しい運動を獲得していくその秘訣はなになのだろうか、なにかそこにはわたしたちの運動学習に役立つ秘密がありそうな気もする。言語もままならず、親のいうことなどどこ吹く風で、まさに風狂の構えさえ見せる、それが彼女の運動学習の秘密かもしれない、と納得してみる。
それから、「基礎」がしっかりできあがっていって、その上に新しい動作がつみあげられて、ちょうどビルディングができあがるように、下から順番につくっていく、というような学習の順序を踏んでいるようにも思えない。はいはいなら、まず拙くグロテスクで欠陥だらけのずりはいのようなものがでてきて、その後に要素的なものが精緻になっていく。そして、その精緻化がまだまだというのに、先にある掴まり立ちとか伝い歩きに展開する。わたしたちのもっている運動学習の理論や実践をいとも簡単に超越してしまっているようだ。

体幹コオーディネーション:

この話を徳島大学の荒木先生にぶつけてみた。先生は、系統発生と個体発生の関係という視点から、運動の発生や学習を考え、そこから体幹からはじまるコオーディネーショントレーニングを考案している。

「すべての運動は体幹制御から始まる。乳幼児期に獲得した神経発達による体幹制御は、人間にとって重要な運動制御能力である。体幹の屈曲から始まり肩関節と腰関節の連動に至る動きの獲得はトレーニングの基本となる。」(荒木:2002/11/10講演会資料より)

きわめてシンプルであるが、運動の幹たる体幹制御の重要性の指摘は示唆的である。具体的な展開としては、体幹制御から全身運動へというエクササイズの広がりをもつ。体幹を動かす→頭と腰の連動→体幹と四肢の連動→体幹の捻りと四肢の捻りである。
あらためて思いおこしてみると、首がすわり、頭がうごかせるようになるころから体幹をごそごそと動かしはじめ、それが寝返りとなり、腹這い姿勢での頭の直立、体幹・腹を床につけたままで、手と足のもがき動作の時期があったことを思い出した。体幹が離床するのはずいぶん後になってからだった。私自身の視線が四肢の動きに集中していて、肝心の体幹の動きには無頓着だったようである。構造的な発達も、頭部と体幹から四肢へという順序を経てきていることにもあらためて注目してみなくてはならないだろう。
荒木先生の指摘でもう一つ大切な点がある。それは「普遍運動」という言葉であらわされた運動学習の胚にあたるものの磨き直しという考え方である。体幹制御もこの意味で普遍運動の一つで、その普遍運動に立ち返って、それを磨き直しつつ動きづくりを考える、その全体をコオーディネーショントレーニングとしてまとめることができる、という。

体の幹

躯幹、体幹、胴体、Bodyなどとよばれている部位。最近でこそ、その下部、コシやハラが注目されてきたようである。幹という言葉がつくからには、大切なものである、と昔から考えられてきた部位であることは確かだし、くりかえし指摘されているところである。しかし、運動構成という視点からみてどのように大切なのか、ということになると、はっきりと言いにくくなってくる。気とか胆というような言葉に置き換えると、なんとなくじわっとした感覚がはらのあたりに拾い上げることができることもたしかだ。でもそれがある鍛錬の結果、あるいは、偶然の出会いの結果(個人ごとに色合いが違う)だったりすると、それをどのようにとらえ、運動構成のなかに組み込むか、という疑問を解くための手掛かりがとぼしくなってくる。カリスマ的な指導者が登場するのは、このあたりに原因があるのかもしれない。
ベルンシュタインの”発生に注目”という思想は、だれもがかならず一度は体験し、しかも、おどろくべき運動構成の職人として「いい腕」をもち「いい仕事」をしてきている、そこにもう一度驚きの目をひらいてみよう、という提案である。それに導かれ、娘の運動構成の戦いに、毎日目をみはっている!そして、今日6月11日で11ヶ月になった娘からまなんだものは、「体幹」運動に注目してね!という大切な運動思想である。

躯幹は、たんなる死んだ重荷のような状態であったものから、運動をダイナミックに、動きながら支援・支持する器官となり、手足はその体幹を支持する働きをしはじめ、体重をささえられるようになってくる。

すでに、だれもが一度は経験し、いい仕事をしてきたことにあらためて思いをめぐらしてみなくてはならない。そしてまた、このいい仕事をささえるいい腕をだれでも、発生の初期からすでに与えられているということに驚く。とくにだれから与えられたというのではなくて、この生命体はまわりの命の支援をうけながら、みずからのエネルギーを燃やして、自らの不足をつくりだし、その不足をかてにしながら、より目的にあった運動を構成する「類い希な」能力を有している。

命の幹!

こうした命の営みは愛にもとづいた受精によってはじまるのではあるが、そこから子宮に着床する前までが、これまでの自然な、人工の介在しない領域ではなくなった。不妊治療などの要求から、体外受精や、受精卵などの冷凍保存という技術を得た私たちは、その子宮に着床する前の細胞を自在にあつかう手をもちつつある。そこには、人体を構成する幹となる細胞の操作という技術も含まれている。命の幹!そして体の幹!ずいぶん遠いが、娘をみていて浮かんできた連想である!

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2007/08/01

コオーディネーション的思考 59

ベルンシュタインの問い 5
-- はじめのころのコオーディネーション --

言葉はわたしよりも寿命がながい、ということを考えておかなくてはならない。インディアンの友達?!をもっている同僚がいて、スキー実習のリフトの上で、「先生!200年先のことを考えて、インディアンは物事を判断しているといいますけど、どうおもわれますか?」などとアカデミックな話!?をすることがある。「200年」というようなスケールがわたしの実時間の中にはないので、なんともこたえられない。
わたしたちが霊長類として、文字に代表されるような抽象的(捨象的)符号をもちいて物事を思惟するという、「類い希」な能力をもっていること。食べ物を実験室にもってくる人の足音に、犬の唾液反射が形成される、という条件反射の話がある。媒介性とか、間接性、第二信号系などなど、この抽象的な符号の操作という「類い希さ」加減も、限度というものがあるように思える。霊長類の凄さを認めるにしても、手放しで自惚れてもいられなくなってきた。度を超した霊長類は画面の中で命の値段をやりとりする、ということにも平気になってしまう。画面上の鉄砲玉には、いっぺんの鉄砲玉もふくまれていない、ということに慢心している。では、直接や具体や第一信号の重要性を指摘したり、理論的知的な体験ではなくて、直接的な身体的体験に重きをおけばそれで問題が解決するとも思えない。間接を直接とし、直接を間接とし、具体を抽象に、抽象を具体に、一気につなげる運動の流動性にみをまかせてみよう!

はじめのころのコオーディネーション

植物のような移動を好まない生命体から、活発に動き続ける動物になっていくときに最初に行う移動運動は寝返り、そして「はいはい」だ。文明がどのようなものとしてあっても、この霊長類はそうやって自分の姿を作り始める。うまれてすぐに立ち上がった仏様は別としても、体をよじり、よじりながら頭を直立させ、重と力とを混ぜ合わせ「重力」(動)き始める。まだ、無重力状態での受精、妊娠、出産、育児、の経験がないのでなんともいえないが、すくなくとも日本では「動」は「重力」と書く。言葉遊びのついでに、「這う」という辞は、「言」葉に「道」をつけること、というように解釈できる。Bewegungには、Wegが含まれていて、これも「道」!わたしたちの芸道に通じるところがあるようだ。「言」葉に「道」をつける(言葉への道、言葉の道・使い方、言葉からの道)のが「這」うという「動」きということになる?!

引き続き、ドイツ語版「個体発生におけるコオーディネーション」を読む。

まず前号でふれた五つの階層システムについて復習しておこう!
1.水準A・赤核-脊髄水準 -- トーヌス
運動表出にとって重要な『あらゆる基礎的なものの基礎』で、位相的な筋収縮のトーヌスの基礎であり、筋緊張を調節し、相反神経支配と拮抗筋の神経支配を保証し、姿勢や握りしめを調節し、静止運動反射・姿勢反射を操作する。
2.水準B・視床—淡蒼球の水準 -- 魚類・一部両棲類 -- 共働運動・紋切り型の運動
全身をつかった波うつようなクネクネとした単調な動き。魚は尾部を左右に揺れ曲げることによって推力をえている。左右両側の体幹の筋を交互に収縮させて力 を得ている。両棲類にも同じ運動がみられ、突起や四肢を地面に引っ掻けて、そのひっかかりをつかって、体幹を左右に動かしてロコモーションする(匍匐)。
3.水準C・錐体路—線状体 -- 視覚的な情報による運動と外部との調和
水準Cの第一の部分は、線条体を中心とした水準で、空間知覚がおもに働く。陸棲の両棲類で発達し始め、爬虫類ではっきりとしてきて、鳥類で頂点に達する。
水準Cの第二の部分は、錐体路を中心とした水準C2である。哺乳類で初めてみられる水準. 攻撃、狩猟、跳躍など、ステレオタイプでない、一回性の運動ができ、可塑性のある、新しい運動の組み合わせを即興的に作り上げる能力が高まる。身繕いなど の自己メンテナンスの運動が分化する
4.水準D・頭頂—運動前野 -- 霊長類と人間
5.水準E・前頭葉 -- 人間 -- 象徴的な行為(ワイズマン)

ながい時間をかけて手間暇をかけてつくった作品ということになろうか?人間という自然構成体には、手間暇の中身がつまっている、というのがベルンシュタインの考え方だ。運動の構成という言葉がよくつかわれる。ドイツ語訳で残念だか、構成という語は「Aufbau」という訳語だ。大工さんが建物をつくっていくことをイメージする。運動の大工仕事、という訳もできるし、職人的な感じが背景にある。運動の系統発生という大工仕事の主はだれか、ということはここでは問えないが、その作品から学ぶことはできる。そしてベルンシュタインは、その作品、運動の階層システムの個体発生に考察をすすめる。

<物の把握>

マイネル・シュナーベルは、わたしたちが使っている「概念」という語の「運動性成分」を指摘している。

言葉は、動作の発達と深く関係しながら発達しました。これは、日常使っている言葉のなかに潜んでいる、具象的な“運動性成分”を考えてみると理解できます。“概念(Begriff) ”、“関係(Beziehung) ”、“取り扱い(Behandlung)”、“対象(Gegenstand)”などの抽象的な言葉からも、読み取れます。また、“活動”を表す言葉を発音してみると、そのなかに運動の要素が含まれていることがわかります。例えば、跳ぶ・シュプリンゲン(springen)、ぴょんぴょん跳ねる・ヒュッペン(hupfen)、けんけんする・ホプセン(hopsen)、突く・シュトッセン(stossen) 、ぐるぐる廻る・シュビエレン(schwirren) などの動詞をきれいに発音してみると理解できるでしょう。言葉のなかには、リズムや音響の面で動作という成分が隠されているのです。
  さらに重要なことは、子供の言葉、そして認知、表象、概念が物に触れたり、つかんだりする動作をもとにして、生まれてくるということです。周囲にあるいろいろな物と感覚運動的にふれあうこと。このふれあいが多様で豊かな内容であれば、表象や概念の内容も豊かなものになり、かつ、事実に即したものになるのです。(動作学-スポーツ運動学:12)

ドイツ語の概念にあたる語は、「Begriff」で、これは、「begreifen」、「ものをつかむ」という動詞から派生した。日本語の側からみてみると、把握は手を巴にした動きに源があるということになるだろう。他にも、「Beziehung」「関係」は、「ziehen」「引っ張る」から派生し、「Gegenstand」「対象」には、「stehen」「たつ」が含まれている。こうした例はたくさんある。
ベルンシュタインも、生まれたての赤ちゃんの運動発達の典型例として、物を握りしめる動作に注目している。

生後一週間、手のひらの触覚を刺激するように、物を手に押し込むと、指をまげてそれをぎゅっと握りしめる。生後四か月から五か月目になると、視覚でとらえた対象 ( 視野の中の置かれた色の付いた玩具等) をつかもうとしはじめる。これは、散漫でばらばらで無秩序な協働・共同運動のようにみえ、激しい突発的な「もがき動作」である。手足の動きは、左右交替の落ち着きがなく、表情筋、頚筋、躯幹筋がそれにかかわっている。散漫な運動興奮が突発することで、手のひらがたまたまその対象に触れれば、それをしっかりとつかむ。こうした動作が首尾よくいかないと、激発的動作は自然に消え、10秒から20秒後にまた突発的動作が起こる。生後六か月目から十二か月目には、この過剰な突発動作の中に、それと入れ替わりながら、目標物にねらいをつけた、一回性の単純な手の動作が発生し始め、最初不正確で失調的で欠陥の多い動作であるが、より正確で適切なものになっていく。(

指・手・腕の筋のトーヌスを保持しながら、それら全体を緊張させて、触覚や視覚に刺激をあたえる物を捉える・つかむという運動の発生である。ベルンシュタインは、この発生を、解剖学的な面での調節水準の成熟に対応させて次のようにまとめている。

上述した把握の第一期は、触覚刺激に対する応答としての手の握り動作であり、脊髄水準の成熟にもとづいている。第二の過剰運動性動作の発達期は、水準Bに典型的な視床—淡蒼球性動作期である。最後の一回性の手動作期は、解剖学的な成熟がすすむ空間領域水準の表現である。すなわち、意味のある動作が、個体発生初期において下位から上位にすすむ解剖学的な成熟に対応しながら、運動構成水準を経て転換していく。この過程は成熟した個人にも見られる。
生後五か月から六か月に見られる多様な散漫で過剰な運動性を伴う、視覚でとらえた物の把握は手で持った物を口にもっていって噛む動作が、コーディネイトされた単純な一回性動作として発生する時点になって完成する。対象物を把持した/しない手を口に運ぶ動作は、方向という点で子供の本能に対応してはいるが、視覚でとらえた対象物の把握や自立取得(Sichaneignen)は、原初的な本能とは矛盾した伸展反射動作、つまり自分からとうざかる動作を必要とする。

水準AからC2までの成熟に対応させている。そして、この物の把握動作は、噛む動作にまで成長していく。一回性の対象をねらった把握動作はそれ自体ではあまり意味をもっていないのであり、口にもっていって噛むという食本能とつらなる意味をもつ動作に成っていく。そして、この噛む動作には、本能的な反射とは矛盾する動作要素があり、それまでの動作との断絶を経験することになる。
ちょうど10ヶ月になった娘の動きをみていると、これまでの彼女の運動大工仕事は見事としかいいようのないおどろきにみちあふれている。言葉ももたず、有効な戦略や計画をもってトレーニングするわけでもないのに、もっともむずかしい、離れ業・危険をおそれない大胆なパフォーマンスに挑戦する無心な姿はかけがえのないものだし、運動問題をあつかっている私としてはなんともあたまがさがる。
彼女はいまちょうど物をくちにはこんでいくことが自在にできるようになってきている段階にさしかってきている。親指と人差し指を対向させて、ずいぶんと細かいものまでつまんで口にもっていくことができるようになってきている。しかし、まだ、その「つかみ」は精緻さを欠いているが、ありとあらゆる物をつかみ、口にもっていく。
あるものを狙いをつけて握るには、自分のからだから手を遠ざけていき、物にふれそうなところまで手先をもっていって、その手のひらの面を物の方にむけて、手を開き、物にゆっくりと接近しながら、その物をおしのけないように把持する。自分の口に運ぶために、その把持のトーヌスを維持しながら、手腕を屈曲し、実際には視覚では捉えられない自分の口を目!?指す。目の部分や頬や鼻やにではなく、口に運ぶ。口をあけてその物を噛む。噛めるようなつかみ方であったならば、この動作はそこで成功するが、手のなかに物がうまってしまっているような場合にはやっかいである。手ごと全体を口にふくまざるをえない。歯がはえていないので幸いするが、もし歯がはえていれば、赤ちゃんの手はちだらけになっているはずだ。うまくできているものだ。口にものを運ぶ訓練が十分できるように、歯はずいぶんすぎてから生えてくる。
はいはいがはじまってすでに一ヶ月以上がすぎたのだが、対象の把握はますすますダイナミックな姿になっていく。身のまわりという範囲の広がりはここちよい居場所の否定を前提にしている。手を目標とする物にむかって伸ばす動きも、この否定をスタートにする。始まりはいつも現状の場所の否定である。はいはいにしても、現状からの離脱をきっけとして始まる。彼岸のゴールは此岸のスタートラインの否定である。
生後一年の後半期はその意味で大変革の時期にあたる。ベルンシュタインの指摘をみてみよう。

生後五か月から六か月の運動系は大変動を被る。この時期には、二つの最も重要な系が同時に成熟する。すなわち、
1.赤核群とそれにつながる伝導路の髄梢化と活性であり、旧運動的調節の水準Aの機能をになっている。
2.空間領域C1の下位水準である線条体の髄梢化と活性である。
こうした形態学上の変化に基づく、重要な機能の新獲得について要約しておこう。
スタティックな面をみると、生後六か月頃までに姿勢保持ができるようになる。この時期までに、その身体は仰向けであまり動きがとれず、短くて力の弱い手足は、ねらいも効果もはっきりしない、もがき動作(Strampelbewegung)を行い、その動作の間には何等のコオーディネーションもない。線条体( そして赤核系) は、座ったり、一人で体を起こしたり、横になったり、腹ばいになったりなど、様々な姿勢をとることを可能にし、その後直立し、立ち上がることができるようになる。・・・立ち上がる場合、最初非常に複雑なメカニズムが動員される : すなわち、仰向けから腹ばいへのひねりがあり、四肢で支え立ちし、膝を伸ばし −− 四肢で支え立ちした状態で −−立ち上がる( 表1) 。能動的で合目的的な姿勢の新獲得は頚筋群と躯幹筋群の正確な反射的緊張に基づいている、すなわち、自己受容性の反射環の正確な機能によっているのである。
動的な面らみると、同時運動性(Synkinesien) から協働・共同運動性(Synergien) に移行する。同時運動性は、同時に起こる動作であり、その動作の間には意味深い関連はなく、成人では病理学的にのみ見られるものである。協働・共同運動性は、コオーディネイトした動作やその要素であり、課題を共同・協働して解決する。生後六か月たつと、ばらばらで無目的的な手足動作は見られなくなる。その後躯幹は死んだ重荷から動作を動きながら支援・支持する器官となり、手足は支持の働きをしはじめ、体重の負荷をささえる活動をしはじめる。
空間領域C1の下位水準と共に活動する赤核—脊髄路水準の緊張調節は、平衡感覚装置、つまり耳石—、迷路システムの機能性を拓く。それは座位、立ち上がり、方向転換に際し、その動的平衡の保持を可能にし、筋トーヌスを調節し、最初自己の身体の空間的見取図(身体図式) 、そしてその後周界の空間領域の空間的見取図という能動的で総合的な認識をはじめるのである。

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2007/07/31

コオーディネーション的思考 58

ベルンシュタインの問い 4
- これまでのこと=これからのこと -

過ぎ去ったことを過ぎ去ったこととして、時の流れの彼方のこととしてとどめておくことができるのであれば、流れるような動きも夢ではない!わたしたちが内側からみる運動の世界には、過去から現在、そして未来にむかうような順時間の流れを認めることができない。過去も未来も、現としての運動のなかに混在する。アウグスチヌスではないが、過去は現において過去として自覚されたという意味で過去なのであり、未来も現においていまだ到来していないと自覚されるかぎりにおいて未来なのである。
だが運動の内部世界にはもっとやっかいなことがある。それは、過去や未来の、現における自覚が明らかになることはそれほど多くない・まれだということである。過去や未来の自覚が目的なのではなく、それが運動のなかで機能する、という限りにおいて自覚されるのであるから、モヤモヤが常態で、むしろ、自覚は運動のさまたげとなる場合が多い。
トレーニングや練習の時に、フィードバックやイメージトレーニング、意識化や認知的な判断が重要だとされるが、実際には、実感される時間の流れのなかでは仮想的なものにすぎない。過去の情報の現在化をとうした運動情報への転換がフィードバックの意味であり、未来の情報の現在化をとおした運動情報への転換の練習がイメージトレーニングである。フィードバックなどと暢気なことをいってられるのは、練習のときぐらいのことである、と考えておいたほうがよさそうである。

「これからのこと」としての「これまでのこと」

ベルンシュタインのドイツ語版の論文集「運動生理学」(1976、1985)には、「個体発生における運動コオーディネーション」、「運動の発生」という二つの論文がある(英語版の論文集には、系統発生や個体発生の問題をあつかったものがない。)。英語版「巧みさとその発達」には詳しい記述がある。彼の問題にした発生は、系統発生、個体発生、そして学習である。
発生問題を扱うのは、なにも、昔をなつかしんでみたり、人間が進化の最終端にいることへのうぬぼれにひたるためではない。現に運動が発生していることの深度を理解すること、いにしえを現において知ること(稽古)である。「これからのこと」として「これまでのこと」を動きにすることである。生物の多様性を前提にした共生論があるけれども、共生の相手は体の外にあるだけではなくて、自身の身体自然のなかにこそ棲んでいるのだ、という考え方である。身近なもの、というにはあまりに身近すぎる、この身体内に生息している生物組織に、運動の発生の立場から光をあててみなくてはならない。過去にもどることは、未来にむかう現の運動を理解しはぐくむことなのだと考えてみよう。
ベルンシュタインの発生論について、日本語になっているものとしては、ワイズマン「ちえ遅れの子の運動機能と脳」(茂木俊彦訳:1978)がある。

「・・・もし精神薄弱児の運動の病理を、もっぱら運動的性質の量的欠損に帰着させるとしたら、軽度の精神薄弱児の場合に運動能が損なわれていないのはなぜなのかを理解するのは難しい。精神薄弱児による複雑な運動の遂行と、精神薄弱児がより単純な運動をするさいに経験する困難とを説明するためには、運動的行為の本質に迫る新しい接近法が必要である。そのための基礎を提供したのが、著名なソビエトの生理学者エヌ・ア・ベルンシュテインによって研究された運動構築の水準理論である。」(20)

 1978年とあるから、訳語に問題もあろうが、スポーツのトレーニングに関わるものとしては興味が尽きない。ベルンシュタイン自体、体育、神経病理、労働、芸術教育など多くの分野を意識した理論をつくろうとした。ドイツでは、選手養成をねらいにしたスポーツ運動学やトレーニング理論として受容され、ワイズマンは精神遅滞の診断と治療に利用する。ワイズマンは言う。

「もし矯正の諸原理の功利的基礎として、ベルンシュテインによる運動構築の水準の理論を採用するならば、具体的な補償—回復方法の選択はきわめて容易となる。この理論は運動に関するさまざまな生理学的分類のなかにあって卓越した位置をしめており、複雑な運動行為を、それを構成している諸成分に分解し、脳の水準の状態と、運動や活動の制御におけるその役割を明らかにすることができる。」(25)

スポーツを運動能力開発の先端的な実験場と考えてみると、そこでは、運動ができるとかできない、障害があるとかないとか、そのようなこだわりが消え失せる瞬間にであう。運動は日々新たに、である。

「個体発生におけるコオーディネーション」を読む!

ここでは、ドイツ語版の「個体発生におけるコオーディネーション」をみてみることにしたい。
ベルンシュタインは、「系統発生の個体発生における繰り返し」という考え方の批判からその発生論をはじめる。批判は次の三点である。

「i.下等脊椎動物の運動装置のほとんどは、その生物的環境ごとの運動課題に対応しているが、胎児や新生児の運動装置はまだどんな運動課題も解決できない。
ii.たとえ、誕生前後の、中枢運動神経装置の成熟順序が系統発生における順序に一般的に対応しているとしても、コオーディネーション課題の解決に対するこれらの装置の機能は相当後になって成熟する。
iii.中枢神経系の系統発生は量的増大ではなく、新しい神経網、新しい、若い、より完全な神経装置が層をなして積み重なっていく過程である。この過程は、すこしづつすすむものであり、かつ偶然的なものでもあるが、飛躍的でもあり、形態を豊かなものにし、その結果、重要な生理的機能の中心は絶えず大脳の前方に移動していく。」

こうした批判から、系統発生でつくられたシステムについての細かな分析がはかられる。ここでは、詳細な説明ははぶいて、運動の系統発生についての記述に注目してみる。

系統発生におけるコオーディネーションシステムの発達

AからEまでの5つの水準にわけ、中枢神経系のメカニズムをおさえつつ、それに対応した運動課題を考え、多課題対応型の階層システムが提案されている。同じような運動にみえても、細かく観察してみると、それぞれに違いがあり、制御のメカニズムも異なってくる。
ワイズマンの指先で円を描く運動の例をみよう。(27-28)
水準Aは、ピアノの演奏にみられるような、1秒に6〜7回の速さで、同じ音階とか楽譜を繰り返し弾く運動で、この時指先は小さな円状の動きをする。
水準Bは、空中に手で円を描くような運動で、ダンスなどでみられる。
水準Cでは、紙に書かれている円をなぞること(C1)やそれを模写する運動ができる(C2)。
水準Dでは、結び目をほどくなどの手の円運動をすることができる。
そして水準Eでは、幾何学の定理などを証明するための図として円を描くことができる。
このシステムは系統発生のなかでつくられたもので、外なる自然の深さにも驚かされるが、わたしたち人間だれもがもっとも身近にもっている自然システムの奥行きと深さにも驚いてしまう。
各水準にについて概略をしめしておこう(109-112)。
1.水準A・赤核-脊髄水準(ワイズマン)・トーヌス(ベルンシュタイン)
自己受容性感覚によって、筋トーヌスの無自覚的無意図的なコントロールを行い、運動の下地をつくるのがこの水準である(ワイズマン)。赤核系は、最下位の、系統発生的には最も古いコオーディネーション水準である。ここでは、自己受容的な反射環の水準、ないし、『古運動調節水準(palaeokinetische Regulation』とし、その生理的特性を強調しておく。人間では、なんらかの独立した運動を産み出すことはない(この水準から上位の水準への『前脳化』という意味で)。とはいえ、運動表出にとって重要な『あらゆる基礎的なものの基礎』で、位相的な筋収縮のトーヌスの基礎であり、筋の緊張性を調節し、相反神経支配( Scheringtonによる)と拮抗筋の神経支配を保証し、姿勢や握りしめを調節し、静止運動反射・姿勢反射(statokinetische Reflexe)を操作する。
2.水準B・視床—淡蒼球の水準 -- 魚類・一部両棲類・共働運動・紋切り型の運動(ワイズマン)
この水準は、系統発生からすると、魚類、そして一部は両棲類から見られるものである。運動としては、全身をつかった波うつようなクネクネとした単調な動きという特徴がある。魚の鰭の動きはやむことがなく、体の平衡を維持している。この水準の運動のほとんどがロコモーションである。それも、全身をつかった共働運動として実施され、大部分が静かな動きで、滑らかでリズミカルである。魚は、尾部を左右に揺れ曲げることによって、推力をえている。その時使われる筋肉は左右両側の体幹の筋である。この筋肉を交互に収縮させて力を得ている。両棲類にも同じ運動がみられ、突起や四肢を地面に引っ掻けて、そのひっかかりをつかって、体幹を左右に動かしてロコモーションする(匍匐)。
3.水準C・錐体路—線状体・視覚的な情報による運動と外部との調和(ワイズマン)
水準Cは、二つに分かれている。
その第一は、線条体を中心とした水準で、空間知覚がおもに働く水準C1である。運動の方向づけの判断と運動のプロセスにそっての力の配分を行う。(ワイズマン)この段階は、陸棲の両棲類で発達し始め、爬虫類ではっきりとしてきて、鳥類で頂点に達する。感覚的矯正に適していて、複雑な動き、登るとか飛ぶという動きができる。全身運動は、「四肢を使った様式」に留まらない。バランスの高度な支配が出来るようになる。魚には動きのない状態がみられなかったが、この段階ではバランスを調節するシステムができあがる。この下にある視床─淡蒼球システムの働き、つまり、筋の共働作用をを抑制したり、調節したりするための器官ができあがり、運動しないでじっとしていることができるようになり、突如動き出すということもできる。頭や頚の運動が特徴的で、アテトーゼ患者の運動に似ており、時間経過にしたがって、蝋人形や彫像のような不動の姿勢から、突如運動が開始される。この運動は、哺乳類ではみられなくなる。移動様式も複雑となり多様になるにしたがって、優れたコオーディネーションを示し、創造的ともいえるような運動が発生する。これは対象的行為の水準にいれてもよいような運動である(巣作り)。鳥類は、魚類にはなかった多様な運動が出来る。身繕い、羽毛へ油を擦り込む運動、子供の保育である。この段階で初めて、表現運動や音声の調節がみられるようになる。発音とはいえない、蛙の鳴き声は、鳥類ではさえずりとなる。ダンスもみられる。空間的な定位や目標を目指したロコモーションはより正確となる。これは、食肉鳥に発達しはじめるC2領域に対応したものである。本当の意味での、対象的な行為は、ほとんどみられない。可塑性や、あたらしい運動結合を産み出す能力もまだ充分に発達していない。
水準Cの第二の部分は、錐体路を中心とした水準C2である。
錘体路の発生と発達に対応し、哺乳類で初めてみられる水準である。
上述の三つの段階で獲得したコオーディネーションを失うことなく、それに加えて、攻撃、狩猟、跳躍など、ステレオタイプでない、一回性の運動ができ、可塑性のある、新しい運動の組み合わせを即興的に作り上げる能力が高まる。身繕いなどの自己メンテナンスの運動が分化する。
意図的な行為に近い遊びは群の教育にみられ、表現性をもった音程やアクセント、ものまねや表現運動もみられる。運動は羽毛のような印象を与える。完全な休止の状態はなくなる。探索的な運動、習慣的でリズミカルな尾振動(爬虫類にはみられない)や、意図的ではない仕種が沢山みられる。爬虫類や両棲類はロコモーションをするだけだが、哺乳類は、ロコモーションと精密運動の能力を持っている。運動を絶えず発達させることができる哺乳類では、次第に、対象的な行為の萌芽ともいうべき、意味のある運動が発生する。
4.水準D・頭頂—運動前野・霊長類と人間
水準Dは、霊長類と人間に特徴的なものである。高等な猿から人間への飛躍はたいへん大きなものである。対象的な行為という点で、類人猿は人間とくらべて要素的な段階にすぎない。錘体外路の運動という面で、人間は、鳥類に比べて後退している。空間領域の水準に属する運動という点では、鳥などは人間をはるかにしのいでいる。速度、強さ、確実性、定常性、疲労耐久性、飛躍距離、バランスなどではたちうちできない。この水準では、自己受容性の感覚は、二次的な働きをするようになり、求心性は統合されて、直接の一次情報よりも、その情報の意味的な面が重要になる。上下、間、前後などのような空間を表現する言葉と結び付いた運動が生まれてくる。自分の運動を言葉によって組織だてることが、この水準の特徴になる。
5.水準E・前頭葉・人間・象徴的な行為(ワイズマン)
この水準は、音楽の演奏やダンス、また字を書く運動など、あるまとまった考えを表現する行為を特徴としている。ドラマとか役割遊びとか、あることを言葉によって想定しながら、それにしたがて、運動をつくりあげることなどが内容となっている。自分の考えを書き表す行為は、水準Dの対象的な行為、言葉と結び付いた運動がないと成り立たない。さらに、運動の空間的な組織化の水準Cは、手とペンを空間のなかで位置づけ、罫線にそって字を書く運動を生みだす。さらに、水準Bは筋の共働運動を保証している。水準Aは、筋の反応性をたかめ、トーヌスを制御している。

「運動スキルの発達」という論文集に、こうした階層システムについてまとめた表がのせてある。この場合、下地となっている自動性を、コンスタントなステレオタイプと考えてはならない。この自動性が、高度な適応性と変動性をもっていて、主導レベルの性質と手段の可塑性を自在にしている、という点、その特性は実行のときに意識する必要がないというところにある、ということが指摘されている。。

主導的機能        下地の自動性レベル    主導レベルの動作         下地の自動性
C                        B                                    歩行                            歩行のシナージー
C2                      C1とB                            棍棒投げ                    助走とバックスイング
D                        CとB                             草刈り                        歩行と草刈り動作のシナジー
D       C          運転(自動車等)  運転のときの空間支配
E       D、C、B      会話        言語運動コオーディネーション

このように、コオーディネーションの階層システムは、運動の内容に対応しながら、運動器官の自由度、重力などの外力を利用するメカニズムとして発達してきた。こまかな点では解剖学的にみて十分に証明されていない部分は多い。その意味でまだ仮説の域をでないが、コオーディネーションのトレーニングの具体的な内容を考えていくときには大変重要な視点となるだろう。

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2007/07/28

コオーディネーション的思考 57

ベルンシュタインの問い その3
—— ホムンクロスを探し・鍛える? ——

100年先に、今世紀は戦争の世紀であった、とリフレクションがなされたり、1000年先に、前の1000年は戦争によってはじまった、というような、次の1000年への誓いや祈りがくりかえされるのかもしれない。わたしたちの「脳の紡ぎ出す知恵」と言われているものははかない!というより、なぜ、脳にかくも過剰な期待をよせてしまうのか、ということがよくわからない!
すばらしい記録、勝利や敗北、フェアプレーもラフプレーも、脳の仕業とすることになれてしまうことが怖い。反面、運動の末梢は免罪されているということでもあり、それ自体に意味を問うことを阻むなんらかの根拠がある、ということでもあるだろう。脳/知識/意志/動機の正統や文化が、末梢/運動/散逸/めまいの異端や野蛮を、前提としつつ周縁化するというような構図が、すこしおくれて運動やスポーツに刻まれているようだ。

局在説

ベルンシュタインが壊れた時計を例にだしておもしろいことをいっている。

特定の脳部位の欠損によって、ある機能が失われることはたしかだが、事実の意味するところは、欠落した機能が失われた脳部位に局在しているということ、にはならず、単に、その神経機能にとって、当該の部位の存在が本質的な前提になっているのだ、ということを示しているにすぎない。つまり、ある時計から歯車をとると、時計が止まってしまうが、だからといって、時計の機能が、除去された歯車にあるのだ、ということにはけっしてならない(能動性の生物学:205)。

わたしたちはふつうこの歯車だけで時を刻んでいるとはおもわないから、歯車を修理すれば、また時を刻むようになるということがわかっている。ところが、脳のある部位に損傷がおこって、それによって運動機能や感覚機能がうしなわれたり、思考のある部分が欠落したりすると、その部位がその運動機能や感覚機能をいってに引き受けているかのように考える。
ベルンシュタインの批判は、戦争で傷ついた人たちのための義手や義足の開発という仕事からでてきた考えなのかもしれない。従軍医師の経験もあるから、頭部に銃創をおった患者もおおくみているはずで、そうなると、機能局在という考え方のほうに軍配をあげたくなるのではないか、専門家として当然そのような見方となるのではないかと、わたしなどはおもってしまう。しかし、そこのところがベルンシュタインのえらいところで、その局在説に疑問を投げかける。素朴な骨相学ではないが、脳にすべてをあずける、ということ、そしてその脳の特定の部位に対応させて運動の機能を説明しようとする考え方にある距離をおく。

「運動の解剖」

「身体性とコンピュータ」という本がある。ロボティクスのまなざしからの身体や運動のとらえ方を知ることができる。ベルンシュタインを我が国に紹介する窓口を担当しておられる認知科学の佐々木正人さんたちのグループのメンバーである三嶋さんらが「運動制御の生態学的基礎」という論文を書いている。展開としては、最初に、身体運動の協調現象を扱い、そのあとに協調現象に対する知覚の作用が論じられている。いつものことだから、あまりふしぎなことではないけれども、最初に運動の記載があって、その原因を構成している知覚や認知のメカニズムを考えるというやり方はいっこうにかわらない。
ベルンシュタインの運動に対するまなざしから学ぶべきところが多い。ロコモーション研究の意味について次のようなことを言っている。

わたしたちは、対象に関するはやまった理論を構成したり、力づくでなんらかの類似性を、一般力学から引っ張ってきたりすることはしなかった。ロコモーションを、たいへん複雑な生きた形態学的な対象とみ、正確に観察し記述することを課題とした。 1928年すでに私は一般的な形で次のような考えを示している。生体の運動は形態学的な対象とみなすことができるということ。この運動は各瞬間に全体として存在しているのではなく、時間的に発達するもので、そこには他の器官や組織とは違った時間座標があり、したがって形態学的な対象から運動を除外してはならないのである。

運動を説明するときに、どうしても、運動の原因を、運動以外のところにもとめるというやり方・考え方になりがちであるが、まずは、そうした考え方を「封印」してみる。なんとか、運動のなかにとどまってキネステーゼ的に考えてみようとする「運動思考」を貫くということ。そこにベルンシュタインのこだわりがある。しかし、こだわるといっても、そのこだわりの根拠が運動のなかにあるかどうかとなると、いわゆる「プラトンの発動者(霊魂)の不動性」という問題にであう。「動のなかに不動を探す」というなんとも矛盾する塵のなかで、息苦しさを生きなくてはならなくなる。

中枢は運動を一義的に決定できない!

前回、コントロール無関の力のことにふれたが、中枢指令と末梢の運動の関係についても、ベルンシュタインの視点は虚無的だ。「運動生理学」から、中枢ー末梢関係についてふれた箇所をぬきだしてみる。すこし煩雑になるが、運動論の核心にせまるところなのでおつきあい頂きたい。

<中枢性のインパルスは、運動に直接現象することはない>

中枢神経性の効果インパルスは、運動のなかに直接現象することはない。屈筋の興奮は対応した関節の屈曲を、伸筋の興奮は伸展を、という基礎文献にある記述はひどい誤りであることが証明された。筋力( そして最も単純にいえば、加速) の変化曲線は、結果として引き起こされる運動を一義的に決定しない。(ロコモーションのバイオダイナミクス:36)

<運動末梢は中枢と固定した力学的結合をもってはいない>

コオーディネーションンという概念は、効果器系の過程の概念から演繹的に導きだされるものではない。中枢性の効果器系、たとえば運動野には、体部位の投影が認められるが、そうした投影として運動末梢をとらえ、しかも、上位から起こる一連の効果インパルスの連鎖が、この投影を根拠として、運動のなかにかならず正確に一義的に再生する、と考える限りは、コオーディネーションの概念はまったく必要のない。中枢が末梢に正しい目的適合的な効果器系インパルス連鎖を送付すれば、末梢は正しい目的にあった運動を現象させる。中枢性の効果器系インパルス連鎖の組立が間違っていて目的あってないと、末梢投影も間違っていて目的にあっていない運動をうむ。しかし、どちらの場合も、運動はコオーディネイトされており、中枢性インパルスのなかに含まれているものを運動は正確に反復するのである。この両者は運動末梢によって同じように正確に実行される(反映する) のであり、 ピアノは、上手い演奏も下手な演奏も同じ正確性でもって模写する。
コオーディネーションの概念は、運動末梢が中枢と固定的な力学的結合をもってはいないということが明らかになったときに初めて、効果器系の過程の説明のために引き合いにだされる。つまり、運動は効果器系の過程によっては完全に決定されるのではないのである。(ロコモーションのバイオダイナミクス:58)

<中枢と末梢の間の一義的な関連性の欠如という溝>

機能の溝、つまり、中枢と末梢の一義的な関連性の欠如という溝がふかければ深いほど、インパルスと運動の依存関係がより複雑で、コンスタントでなければないほど、そして中枢効果器系との関係で運動末梢の自由度の数が多ければ多いほど、操作の組織化はより複雑で扱い憎いものとなる。この操作と操作性の組織化こそがコオーディネーションなのである。従って、コオーディネーションという考えは、運動中枢と運動末梢、インパルスと効果の間の、機能的な非一義性というアイデアと深く関連している。この非一義性に関する知識が増えれば、運動コオーディネーションに対する理解も深まることになる。(ロコモーションのバイオダイナミクス:58)

<中枢性のインパルスと運動の間には何等の一義的な関連性はない>

1.中枢性のインパルスと運動の間には何等の一義的な関連性はない、そしてほとんど有りえない。
2.この関連性は、運動するキネマティック連鎖が複雑であればあるほど、一義性から隔たることになる。
3.運動は、末梢で起こっていることに対する、中枢性インパルスの、非常に取るに足らないような連続的で前以って予言できない同調がうまくいくことでのみ成功する。末梢の現象は、中枢性インパルスに、外力の場よりも依存することが小さいのである。(コオーディネーションと局在の相互関係の問題:70)

<自由度と非一義性>

人間や高次動物の運動装置と人工自動装置の生体力学上の相異は、自由度の数が莫大で三桁にも及ぶ数になるという点である。自由に結合しているキネマティック連鎖の多分節性によるキネマティックな自由度という意味でも、筋の活動スピード、その緊張度、その長さ、その長さの変化スピードの間の一義的な関係がないことによる、粘弾性自由度という意味でもそうなのである。(運動行動の調節の諸問題:149)

<予見できない力と非一義性>

運動行動の制御と操作のメルクマール・・・をしめしておきたい。最初のメルクマールは、成果(たとえば、四肢の運動、四肢の一部の運動)と、中枢神経系から筋に送付される電気的コマンドのテンポの間の関連はたいへんに複雑で、一義的な関係にない、というメルクマールである。非一義性は、筋が弾性体だからである(蒸気機関車のスラストレバーを、ゴム紐とかバネで置き換えるとどうなるか考えてみるとよくわかる)。運動器官の働きは、投入された筋活動によって、この器官がどのような位置どりをし、どのような速度にあるかによる。さらにこの働きは、次の事柄によっても条件づけられている。関節によって結合している、腕、脚、躯幹という体節の間には、多分節の振り子のように、運動のときに、複雑で予見できない、意志することのできない反動力(反作用力、反動力)が発生する。非一義性は、次の事柄の結果である。意味をもつ運動は、なんらかの外力(重力、摩擦、相手の抵抗)を克服しなくてはならない。この外力は、行為主体の力・マハトにしたがわせることができないし、予見できない力なのである。
(能動性の生物学:195-196)

<プラトンの霊魂、アートマン、ホムンクロス>

仏教用語辞典で、「動作」の意味をひくと、「アートマンが活動すること」という定義がある。仏教における普遍精神である「ブラーマン」が人間におりたって「アートマン」となり、それが活動するさまが動作なのだ、という考え方だ。ドイツ語では呼吸を「Atem」という。よくいわれるように、気が人体にはいってきて、出て行く、という呼気と吸気の「気」もそれによくにた考え方を背後にもっている。プラトンは、神・霊魂という不動者を想定し、その無限で不死の不動者が発動者となって、有限で死を必然とする人間や生物を動かすと考えた。「不動の発動者と動の受動者」。
こうした運動制御の背後にある古典的な考え方についてのリフレクションがはじまっている。ペンステイトのラタシュさんらによる「運動科学の古典」(2001)では、この分野ではめずらしく、運動科学の歴史的な検討を、プラトンにまでさかのぼって行っている。運動理論の「底割れ」「土俵の作り直し」「パラダイムの転換の転換」が急速にすすんでいる。
よく引用される図1は、ターベイが、中枢と末梢との関係に関する古典的なモデルを分かりやすく示したものである。ホムンクロスを想定して、その意図に従って、末梢は奴隷のように働く。プランやプログラムなどいろいろな言い方がされるのだが、いわゆる「表象主義」を根拠としていることにかわりはない。末梢の運動器官のもつ自由度は膨大で、その変化を逐一完全に指令するプログラムをつくるためには、無限の神を代理するような能力をこの小人に与えなければならない。
運動は、中枢指令によって、一義的に決めることができない。指令と結果との関係は変動する。ベルンシュタインの挙げた三つの変動の原因を、ターベイの説明を借りながら次にまとめておこう。
1)『解剖学的な原因』
1多軸関節では、解剖学的な意味で、つねに拮抗筋として働く筋肉はない。
2多軸関節では、各部がはじめにどのような位置をとるかによって、筋の働きが変わる。二つ以上の関節にまで広がっている筋活動は多様である。
3骨格筋はマルチ神経支配を受けている。中枢神経系のいろいろな部位や伝導路からの影響、自律神経系からの影響が、一つの運動に重なりあっている。
2)『バイオメカニクス的原因』
1器官の初期条件—その初速度—全体の力、の間には、環状の相互関係がある。
2多分節のキネマティック連鎖は、力学的に複雑である。莫大な数の反力を生み、運動に対して、非常に気紛れで反抗する性質をもっている。
3)生理学的な現象
効果インパルスに対し、末梢は選択的に活動する。

  このような原因から、運動の結果は、中枢で予め決定されるものではなく、末梢、最終脊髄シナプスと筋神経シナプス、筋、可動性分節の力学的・解剖学的な変動条件、によって左右されることになる。

コ・オーディネーションとサブ・オーディネーション

コ・オーディネーションはサブ・オーディネーションの対概念である。等位(コ・オーディネーション)と従属(サブ・オーディネーション)と訳されることがある。コとサブは、協/共と下/次等の意味をもつ。
ベルンシュタインの運動コオーディネーションの理論は、「脳や意識や意志に運動が従属するものだ」とか「わたしという意志するもの・霊魂が運動の主人なのだ」というような考え方を相対化する。運動のサブオーディネーションという考え方を批判する。
身体の排他的占有権ということがいわれる。身体を自分のものとして、他者の占有をゆるさない、という所有権に関わる考え方である。では、運動はどうなのだろうか!運動の私的所有も身体と同じで、他の人の占有をゆるさない、私自身の可処分域にぞくしているものなのだとするのがふつうである。しかし、この考え方は文明的な奴隷社会に根拠を与える。落語の「頭山」ではないが、わたしたちは頭にできた池に身を投げて自殺してしまいかねないところにいるのかもしれない。

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