2007/02/17

トレーニング科学の用語 4

トレーニング科学が自己言及性をもつのだから,パフォーマンス構造という用語を論議すること自体がパフォーマンス構造の一要素として言及されるということを意味している.
面倒くさい感じはするのだけれども,この自己言及ということがスポーツの世界ではやっかいなのだ!それまで自動的におとなしく自分の意志の範疇で動いてくれていた身体の細部が突如として意識の平面に立ち現れてくるのだ!こうなると,意識は現実の身体の運動の情報処理の限界値をこえてしまうのだ!遅れた反応,つまり,過去の運動情報の処理に翻弄されることになって.現の世界の流れるような時間との間に大きな隙間ができることになってしまう.金縛り状態,過度緊張,リラックスしようとする意識,そうした現の意識に立ち現れる過去の身体運動の残りかすのようなものが頭を混乱させるのだ!しかもこの頭の混乱は実運動のなかにある身体のなかでおこるのであるからたいへんである.
スポーツはだからおもしろいといえばそれまでなのだが,ドラマティックは止まらないのである.

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2006/12/29

トレーニング科学の用語 3

パフォーマンス構造ということが問題になるのは、どのような事情からだったのだろうか?
運動能力とか体力、あるいは筋肉の組成を根拠としたエネルギーの産出様式など、さまざまな知識、生理学や解剖学からの再現性の高い、ほぼ確実と思われる科学の成果を根拠として、そこからスポーツパフォーマンスに接近すれば、「確実」であると考えるのが妥当なところではないか?パフォーマンスは筋肉の出力様式に規定されているのだから、筋肉のないところでパフォーマンスを語ることはあまりユイブツロン的ではない。まずは実体的なものが客観的にあるのだから、そこから確かな知識や論理を組み立てていけばさほど間違いはないはずである。
シュナーベルさんたちはそうした確実さの道をえらばなかった。危うい、あまり信憑性の高くない、不確かで不安定な道をめざすのであった。それは、危険な北壁のルート開発をめざすエベレストの登山隊に似た志向性である。
ライプチヒの人たちには、スポーツの文化性に対する強いこだわりがみられる。この点については、繰り返し書いているところである。トレーニング科学も、あくまでもスポーツのトレーニング科学なのだから、科学的な営みを担当するシュナーベルさんたちも、スポーツトレーニング科学というフィールドでのプレヤーであるという意味の科学者なのだ!このプレーヤーとしての科学者、というのはどういうことかというと、スポーツでの勝利や記録をめざすことにおいては選手以上の情熱を傾けられる科学者であるという意味をもつ!
要素主義や要因論の確実なプレーを選択するのか、構造主義や構成主義の危うい不確かなプレーを戦術的に選択するのか、という問いが70年代の中盤に提示されたということなのだ、と考えてみる!科学情報センターという組織があって、諸外国のトレーニング科学に関する情報収集にあたる20数人の専門家が配置され、科学研究のための情報提供をおこなっていた!諸外国のトレーニング科学が要素主義の傾向があるとすれば、キャッチアップをするよりも、そうした研究成果を収集しつつ、自らはそれとは異なる構造主義や構成主義の方向に科学戦略の舵を切ってみる!そうすれば、要素主義と構造主義と、両面での戦いを展開することができる、と考えたようである。
トレーニング科学のゲーム性に気づき、そこにおいて、どこに重点をしぼることで科学情報戦としてのスポートトレーニング科学研究フィールドで優位を保つことができるのか?を問う!スポーツトレーニング科学研究というフィールドで展開されているスポーツ的戦略論には、理論と実践との溝、などという考え方のつけいる隙はない!<wa>

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